常陸国を旅するチャンネル
常陸国の歴史(紹介ページ)
最終更新 令和6年(2024年)11月 24日
あなたも、常陸国(ひたちのくに)の歴史を学んでみませんか。このページでは、できる限り、主要な出来事に絞った上で、かけ足でご紹介いたします。★超忙しい方は(7)に進んでください。 ★時系列はこちら★
◆ このページでは物足りない方向けに、少し詳しい解説ページを設けています。→ 少し詳しい解説ページ
(1)常陸国のあらまし(飛鳥時代~奈良時代)【西暦794年まで】
常陸国は、東海道の東端、現在の茨城県に位置し、その国府(こくふ)は現在の石岡市(いしおかし)に置かれていました。常陸国一之宮である鹿島神宮(かしまじんぐう)の歴史を採用するならば紀元前660年から、常陸国に国府が置かれた時代を採用するなら7世紀末から、常陸国は、ヤマト王権又は大和朝廷(やまとちょうてい)の影響下に置かれていました。奈良時代に編纂された常陸国風土記(ひたちのくにふどき)には、当時の常陸国の様子が記されています。
(2)承平天慶の乱と常陸平氏の台頭(平安時代初期~鎌倉時代初期)【西暦794年~1200年頃まで】
常陸国にあっては、しばらくの間、中央から派遣された国司(こくし)によって政務が担われていましたが、平将門(たいらのまさかど)によって国府が攻め落とされてしまいました。天慶2年(939年)に起こったこの政変を「承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」と言い、特に、常陸国を含む坂東(ばんどう。現在の関東地方のこと。)一円で起こった政変を「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」と言います。
常陸国を皮切りに、坂東一円を支配下に置いた平将門でしたが、程なくして常陸平氏(ひたちへいし)の平貞盛(たいらのさだもり)らによって討ち取られしまいます。(ちなみに、常陸平氏とは、桓武天皇(かんむてんのう)の流れをくむ桓武平氏(かんむへいし)、とりわけ平国香(たいらのくにか)の流れをくみ、常陸国に土着した平氏のことを言います。)その後の常陸国の国司(常陸大掾・ひたちだいじょう)には、平貞盛の弟である平繁盛(たいらのしげもり)が就き、平繁盛の子孫らは、自らを多気(たけ)氏を名乗った上で、少しの間、常陸国を統治しました。
建久4年(1193年)のこと、多気氏は、のちに常陸国南部で大きな影響力を持つこととなる小田(おだ)氏の始祖・八田知家(はったともいえ)によって滅ぼされてしまいます。そして、次に常陸国の国司になったのは、常陸平氏の流れをくむ吉田資幹(よしだすけもと)でした。吉田氏は、馬場(ばば)氏とも言い、建久年間(1190年~1199年)に、馬場城(のちの水戸城のこと。)を築城しました。以後、馬場氏(常陸大掾(ひたちだいじょう)氏とも言います。)は、応永33年(1426年)に、常陸江戸(ひたちえど)氏に追討されるまでの約230年間、常陸国の多くを影響下に置き続けました。
(3)常陸源氏の台頭と金砂城の戦い(平安時代末期~鎌倉時代初期)【西暦1180年~1200年頃まで】
常陸源氏(ひたちげんじ)とは、清和天皇(せいわてんのう)の流れをくむ清和源氏(せいわげんじ)、とりわけ源義家(みなもとのよしいえ)の流れをくみ、常陸国に土着した佐竹(さたけ)氏のことを言います。常陸平氏が常陸国に台頭していた頃、常陸国の北部(奥七郡)では、佐竹氏が影響力を高めていました。佐竹氏は、清和源氏の流れをくみながらも、平氏側の立ち位置にありました。のちに、このことが、平氏追討に奔走していた源頼朝(みなもとのよりとも)の討伐の対象となり、金砂城(かなさじょう。現在の茨城県常陸太田市上宮河内町にあった城。)において応戦することとなります。治承4年(1180年)に起こったこの戦いを「金砂城の戦い(かなさじょうのたたかい)」と言い、この戦いに敗れた佐竹氏は、一族の滅亡こそは免れたものの、しばらくの間、不遇の時代を過ごす結果になってしまいます。
(4)佐竹氏による常陸国統一(鎌倉時代~戦国時代)【西暦1185年~1600年頃まで】
文治元年(1185年)のこと、平氏の追討に成功した源頼朝は、鎌倉に幕府を構えました。鎌倉時代の到来です。しかし、源氏による統治は3代で終焉し、北条(ほうじょう)氏による執権政治(しっけんせいじ)に移行していきます。(北条氏による執権政治は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)によって滅ぼされる元弘3年(1333年)まで続くこととなります。)
一方、不遇の時代を過ごしていた佐竹氏ですが、鎌倉幕府の衰退によって、転機が訪れることとなります。鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけて、足利尊氏(あしかがたかうじ)方(南北朝時代においては北朝方)に付いた佐竹氏は、足利尊氏方(北朝方)の勝利に伴って、常陸国北部(奥七郡)における影響力を回復することとなります。
延元元年(1336年)に足利尊氏が室町幕府を開き、南朝(後醍醐天皇方)との争いに勝利すると、室町時代は新しい文化(北山文化、東山文化)を開花させます。しかし、享徳3年(1455年)に起こった享徳の乱(きょうとくのらん)等をきっかけに、戦国時代に入っていきます。佐竹氏は、天正18年(1590年)に起こった「小田原征伐(おだわらせいばつ)」での功績(正しくは「忍城の戦い(おしじょうのたたかい)」での功績)によって、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から、常陸国54万5800石の大名として認められることとなり、ひいては、常陸国の統一を達成することとなります。以後、佐竹氏は、慶長7年(1602年)に、徳川家康(とくがわいえやす)から出羽国(でわのくに)への転封(移封)を命じられるまでの間、常陸国の全域(常陸国内の結城氏の所領等を除きます。)を自らの支配下に置くこととなります。
(5)水戸徳川家による統治(戦国時代末期~江戸時代)【西暦1590年~1860年まで】
天正18年(1590年)に常陸国を統一した佐竹義宣(さたけよしのぶ)でしたが、関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)における対応を理由として、出羽国に転封(移封)されることとなりました。そして、城主がいなくなった水戸城には、天下統一を成し遂げた徳川家康の11男・徳川頼房(とくがわよりふさ)がやって来ました。こうして水戸徳川家は誕生しました。徳川御三家の一つとして認知されている水戸徳川家は、初代・徳川頼房に始まる徳川家の分家であり、第11代藩主・徳川昭武(とくがわあきたけ)に至るまで、代々、水戸藩主を務める家系となります。
水戸藩の石高は35万石。常陸国の中で最も大きな藩であり、参勤交代のない江戸定府の藩として将軍を支える役目を受け持っていたと言われています。ちなみに、常陸国には、前述の水戸藩のほか、麻生(あそう)藩、牛久(うしく)藩、江戸崎(えどさき)藩、小張(おばり)藩、柿岡(かきおか)藩、笠間(かさま)藩、片野(かたの)藩、宍戸(ししど)藩、志筑(しづく)藩、下館(しもだて)藩、下妻(しもつま)藩、玉取(たまとり)藩、土浦(つちうら)藩、額田(ぬかだ)藩、府中(ふちゅう)藩、古渡(ふっと)藩、北条(ほうじょう)藩、保内(ほない)藩、真壁(まかべ)藩、松岡(まつおか)藩、松川(まつかわ)藩、谷田部(やたべ)藩、龍ケ崎(りゅうがさき)藩といった小さな藩が数多く存在していたほか、江戸幕府の直轄地(のちに天領(てんりょう)と呼ばれるようになりました。)があったり、他国の藩の領地があったりと、かつて、佐竹氏が有していた54万5800石という石高は、常陸国内の諸藩によって、分散される結果となりました。(志筑藩、松岡藩、松川藩、龍ケ崎藩は、大政奉還後に置かれました。)
歴代の水戸藩主の中で、特筆すべきは、第2代藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)と第9代藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)です。二人は名君であったと評価されており、光圀が取り組んだ大日本史(だいにほんし)の編纂と、斉昭が取り組んだ藩政改革、弘道館(こうどうかん)・偕楽園(かいらくえん)の整備は、現代に残る功績として知られています。斉昭は、追鳥狩(おいとりがり)と称して実施した軍事訓練(鉄砲斉射)のあと、水戸藩主の座を追われることとなりましたが、江戸幕府の参与として幕政に関わることとなったほか、一橋派(ひとつばしは)の筆頭として、将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)にも関わっていきました。しかし、この時の言動が、大老・井伊直弼(いいなおすけ)を刺激し、結果的に、蟄居処分を受けることになってしまいました。安政5年(1858年)に起こったこの事件が、世にいう「安政の大獄(あんせいのたいごく)」であり、この事件を恨んだ水戸藩の浪士らによって決行された事件が「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」になります。江戸幕府が消滅する7年前、安政7年(1860年)の出来事でした。
(6)天狗党の乱と諸生党の壊滅(江戸時代末期~明治時代初頭)【西暦1829年~1871年まで】
徳川斉昭が第9代水戸藩主となった文政12年(1829年)以降、水戸藩においては、改革派の天狗党(てんぐとう)と保守派の諸生党(しょせいとう)との対立が激しくなり、ひいては、天狗党・激派(てんぐとう・げきは。改革派である天狗党の中でも、より強い尊王攘夷(そんのうじょうい)思想をもった派閥。)を中心とした藩士、浪士らによって、先述の「桜田門外の変」のほか、「坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)」、「天狗党の乱(てんぐとうのらん)」といったテロ事件を引き起こすまでに至りました。
安政7年(1860年)の桜田門外の変では大老・井伊直弼の暗殺に成功し、文久2年(1862年)の坂下門外の変では老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)の失脚に成功(老中・安藤信正の暗殺には失敗)した天狗党・激派でしたが、元治元年(1864年)の天狗党の乱は完全な失敗に終わりました。天狗党の乱の結果を受けた諸生党(天狗党と対峙していた水戸藩の保守派)は、水戸藩における実権を握るとともに、天狗党の家族を次々と処刑していきました。その一方で、天狗党の残党は、土佐藩の乾退助(いぬいたいすけ。のちの板垣退助(いたがきたいすけ)のこと。)を頼って江戸に潜伏したのちに、新政府軍の一員として戊辰戦争(ぼしんせんそう・慶応4年(1868年)に開戦した内戦。)に参戦することとなりました。一時は、追われる身にもなった天狗党でしたが、戊辰戦争によって立場が逆転し、旧幕府軍側に立った諸生党を壊滅させるに至りました。このように、天狗党と諸生党の対立は、徹底的な潰し合いとなり、藩士のほとんどを失う結果となりました。
(7)まとめ
常陸国の歴史をまとめます。現在の茨城県に位置する常陸国は、古くからヤマト王権の影響下にありました。平安時代の末期に入り、平将門の乱が起こるも、すぐさま、常陸平氏によって鎮圧され、しばらくの間、常陸平氏の流れをくむ常陸大掾氏(吉田氏、馬場氏)の影響下に置かれました。常陸国の戦国時代を勝ち抜いたのは、太田城を居城としていた佐竹氏でした。のちに、水戸城に居城を移し、常陸国全域を支配下に置いた佐竹氏でしたが、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康らによって、秋田に転封させられてしまいました。当主のいなくなった水戸城には、徳川家康の11男・徳川頼房がやってきました。こうして水戸徳川家が誕生しました。江戸時代初期から江戸時代中期における常陸国は、第2代水戸藩主・徳川光圀による大日本史編纂以外に、特筆すべき出来事もなく、平和な時代を歩んでいました。しかし、江戸時代末期に入ると、これまでとは打って変わって、激動の時代となりました。第9代水戸藩主・徳川斉昭は、藩政改革等に取り組んだ一方で、一橋派の筆頭として、大老・井伊直弼を刺激する言動をとっていました。その結果、大老・井伊直弼による安政の大獄に巻き込まれ、徳川斉昭は蟄居処分になってしまいました。この結果を恨んだ水戸藩(天狗党・激派)の浪士らは桜田門外の変、坂下門外の変を決行し、さらに、天狗党の乱を引き起こしてしまいました。このことは、水戸藩の藩士の多くを失う結果をもたらしてしまいました。
(8)おまけ
おまけです。大化の改新以降の常陸国の歴史を時系列にまとめてみました。常陸国の歴史の流れを確認したくなったときなどに活用してください。