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​常陸国の歴史(少し詳しい解説7)

 このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。

最終更新 令和6年(2024​年)6月 2日

 

【幕間3】少し詳しい解説1から6まで

     の補足

 

★忙しい方は、次のページに進んでください。

 少し詳しい解説1から6までの話は、できるだけ分かりやすく、長くなりそうな話を省いているため、些か物足りなさを感じてしまった方もいらっしゃるのではないでしょうか。ということで、このページでは、記事が長くなり過ぎてしまわぬように、やむを得ず省いてしまった話などを中心に、特に知っておきたい歴史についてご紹介させていただきます。補足的な記事となるため、忙しい方は、読み飛ばしても構いませんし、これでも物足りない方は、茨城県史や市町村史などをお読みになられると、より深く常陸国の歴史に触れることが可能になるものと存じます。

(1)少し詳しい解説1

 はるか昔、縄文時代の常陸国にあっては、香取海(かとりのうみ。現在の霞ヶ浦。)の周辺などに、多くの集落があり、このことは、貝塚の分布を見ることによって確認することができます。人々の移動手段は、徒歩、馬、木造船などであり、縄文時代の頃から道路や航路が存在していたことが分かっています。やがて、農耕文化が入ってくると、人々は稲作を始めるようになり、何世代にも渡って定住するようになっていったと言われています。(弥生時代の到来です。)弥生時代における集落の発展について、茨城県史を調べてみると、─ 農耕文化によってもたらされた定住化は、次第に、集落の人口の増加につながり、農耕に適した土地をめぐって争いが生まれるようになった。強者が弱者を支配する社会が生まれていった。それは「クニ」と呼ばれるまとまりになった。─ という記述を確認することができます。そして時代は、古墳時代に入っていきます。 

 

 古墳時代は、一般的に、3世紀中期から7世紀末までの時代を指しています。常陸国においても、数多くの古墳がつくられており、東日本で2番目に大きい古墳(常陸国で最大の古墳)と言われている舟塚山(ふなつかやま)古墳には、被葬者が特定されていないものの、国造(くにのみやつこ・こくぞう)が埋葬されているだろうとの推測がなされています。ちなみに、国造とは、大化の改新以前の地方官のことであり、クニの首長を指しています。先に紹介させていただいた常陸国風土記(ひたちのくにふどき)においては、新治国造(にいはりのくにのみやつこ)、紀国之国造(きのくにのくにのみやつこ)、茨城国造(うばらきのくにのみやつこ)、那賀国造(なかのくにのみやつこ)、多珂国造(たかのくにのみやつこ)の記述を確認することができます。又、常陸国風土記には、駅家(うまや。大和朝廷によって、駅路(えきろ。街道のこと。)沿いに設けられた休憩施設のこと。食事や宿泊ができたものの、その利用は、許可を受けた使者に限られていたようです。)に関する記述があり、この時代の人々の移動ルートを知ることができます。 

上高津貝塚_貝層断面展示施設

写真-80 上高津貝塚(貝層断面展示施設)

(現・茨城県土浦市上高津地内)

舟塚山古墳
舟塚山古墳_案内

写真-81 舟塚山古墳

(現・茨城県石岡市北根本地内)

(2)少し詳しい解説2

 延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)には、常陸国に限定すると、28の神社(大社7座、小社21座)が明記されています。そのうち7座の大社については、先に紹介したとおりですが、21座の小社について、簡単に触れておきたいと思います。21座の小社については、実際に訪れてみると、社務所があっても無人である場合が少なくなく、老朽化が著しい神社も少なくありません。又、ほとんどの場合、現代の市街地から遠く離れた場所に所在しているため、鉄道旅で訪れるのは、かなりハードルが高いと言えます。なお、日本古来の神道では、「八百万の神(やおよろずのかみ)」という言葉があるように、山岳信仰があったり、伝説上の人物を信仰していたりと、様々な神を祭祀しています。祭祀の方法も様々であり、延喜式神名帳に明記されていない神社も数多く存在しているものと考察されますので、神社の歴史を学ぶ上での参考としてください。 

 【常陸国の小社一覧】

(注記)

1.このページでは、神社のふりがなを、茨城県神社庁や市町村の公式ホームページ等を参考として記載しています。

2.論社(ろんしゃ)とは、延喜式神名帳に記載された神社であろうと論じられている社のことを言います。

※ 大社については、少し詳しい解説2を確認してください。

(3)少し詳しい解説3

 平安時代末期から常陸国の南部を所領とした小田(おだ)氏については、下野国(しもつけのくに)の武家であった宇都宮(うつのみや)氏の流れをくんでいます。では、宇都宮氏はどうであったか、宇都宮市史を見てみると、藤原道兼(ふじわらのみちかね。藤原鎌足(ふじわらかまたり)の11代目の孫。)の流れをくんでいることが分かります。小田氏の始祖であった八田知家(はったともいえ)は、宇都宮氏の第2代当主であった八田宗綱(はったむねつな)の子であったとされており、下館市史においては、現在の茨城県筑西市八田に住んでいたことが記述されています。(このことについては異説があります。)筑波町史には、小田氏の始祖であった八田知家の登場から小田氏の流離までの流れが詳しく解説されており、室町時代初期に起こった小山氏の乱(おやましのらん)までの流れを要約すると、次のとおりになります。 

 

[1]知家は鎌倉幕府の開府以前から源頼朝(みなもとのよりとも)の武士団に属し、鎌倉幕府の開府に貢献した。[2]知家は御家人として鎌倉幕府に携わり、頼朝の逝去後は十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)の一人となった。[3]知家は筑後守(ちくごのかみ)となり、筑後(ちくご)氏を名乗った(このことについては異説があります。)。[4]第4代当主であった時知(ときとも)の代から小田氏を名乗り始めた。[5]時知の代になって小田氏の本拠が常陸国の小田に移った。[6]弘安8年(1285年)に起こった「霜月騒動(しもつきそうどう)」に乗じて、小田氏一族の所領だった常陸国の田中荘(たなかのしょう)が、北条(ほうじょう)氏の所領となった。[7]小田氏一族(宍戸(ししど)氏を含む。)が務めてきた常陸国の守護(しゅご。鎌倉幕府が置いた軍事指導官。)が北条氏に移った。[8]鎌倉幕府の滅亡に伴い、小田氏は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)方(南朝方)に付いた。[9]滅亡した北条氏の所領は、足利尊氏(あしかがたかうじ)方(北朝方)のものとなった。[10]第8代当主であった治久(はるひさ)は、北朝方の攻撃を受け、南朝方の北畠親房(きたばたけちかふさ)が在城していた小田城(おだじょう)を開城した。[11]治久は、北朝方の高師冬(こうのもろふゆ)に降参し、南朝方の関城(せきじょう)、大宝城(だいほうじょう)は北朝方によって陥落した。[12]第9代当主であった孝朝(たかとも)は、小山氏の乱に加担した罪料によって、その所領の一部が没収されることとなり、没収された所領は、上杉(うえすぎ)氏、結城(ゆうき)氏のものとなった。 

小田城址_案内

写真-82 小田城址

(現・茨城県つくば市小田地内)

小田城址

写真-83 小田城址

(現・茨城県つくば市小田地内)

(4)少し詳しい解説4

 寺院(仏教)の歴史を学ぶにあたって、まず知っておきたいのは、奈良仏教(ならぶっきょう)、平安仏教(へいあんぶっきょう)、鎌倉仏教(かまくらぶっきょう)についてです。奈良仏教は、南都六宗(なんとりくしゅう)とも呼ばれ、後述の平安仏教が開かれる前までの仏教のことを言います。奈良仏教の宗派としては、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)の6宗となりますが、現存しているのは、法相宗、華厳宗、律宗の3宗のみとなっています。次に、平安仏教は、遣唐使(けんとうし)として唐(とう。現在の中華人民共和国にあった国。)に派遣された最澄(さいちょう)が開いた天台宗(てんだいしゅう)と、同じく遣唐使として唐に派遣された空海(くうかい)が開いた真言宗(しんごんしゅう)の2宗を言います。平安仏教の2宗は、どちらも現存しているほか、後述の鎌倉仏教の基礎になっています。そして、鎌倉仏教とは、法然(ほうねん)が開いた浄土宗(じょうどしゅう)、親鸞(しんらん)が開いた浄土真宗(じょうどしんしゅう)、栄西(えいさい)が開いた臨済宗(りんざいしゅう)、道元(どうげん)が開いた曹洞宗(そうとうしゅう)、日蓮(にちれん)が開いた日蓮宗(にちれんしゅう)、一遍(いっぺん)が開いた時宗(じしゅう)の6宗のことを言います。鎌倉仏教の6宗は、全て現存していますが、現在に至るまでに、いくつかの宗派に分かれてしまっています。ここでは、数多くある寺院の中から、特に長い歴史を持つ寺院(古刹)を2箇寺ほど紹介いたします。 

 

 写真-84は、「雨引観音(あまびきかんのん)」と呼ばれている楽法寺(らくほうじ)になります。楽法寺の公式ホームページには、「用明天皇2年(587年)、梁の国人の法輪独守居士によって開かれた、厄払延命安産子育の霊験あらたかな延命観世音菩薩(国指定重要文化財)を本尊佛として、おまつり申し上げる坂東観音霊場第二十四番札所の名刹である。」との紹介が書かれています。梁(りょう)とは、現在の中華人民共和国の南部に存在していた国であり、日本の仏教は欽明天皇(きんめいてんのう)の時代(在位:宣化天皇4年~欽明天皇32年、539年~571年)に伝来したと言われていること等からして、日本仏教の草創期に創建された寺院のひとつと言えます。現在の宗派は、真言宗豊山(ぶざん)派であることから、真言宗の広まりとともに改宗された寺院であることも分かります。 

 

 写真-85は、月山寺(がっさんじ)です。月山寺の公式ホームページには、「平安初期、桓武天皇時代の延暦15年(796年)、南都六宗の一宗である法相宗の高僧徳一大師 により、中郡荘橋本村に創建されたと伝えられ、相承13代法相宗の寺として属しておりまし た。永享2年(1430)(中略)天台宗に改められ(中略)現在の地へと移りました。」との紹介が書かれています。ちなみに、徳一(とくいつ)大師 とは、最澄と仏教論争をしていた法相宗の僧のことであり、中郡荘橋本村(ちゅうぐんのしょう・はしもとむら)とは、現在の茨城県桜川市上城周辺を指します。前述のとおり、平安仏教が開かれる直前に創建された法相宗の寺院でしたが、徳一大師の論争の相手方、最澄の天台宗に改宗されています。なお、徳一大師にあっては、常陸国内に多くの寺院を創建しています。 

雨引観音

写真-84 楽法寺(雨引観音)

(現・茨城県桜川市本木地内)

月山寺

写真-85 月山寺

(現・茨城県桜川市西小塙地内)

(5)少し詳しい解説5

 結城合戦(ゆうきかっせん)の主戦場となった下総国(しもうさのくに)は、常陸国の南西(南)に位置し、北部は結城(ゆうき)氏、南部は千葉(ちば)氏の影響下にありました。下総国北部の結城郡(ゆうきぐん)に拠点を置いた結城氏については、宇都宮氏などと同じく、平貞盛(たいらのさだもり)と共に、平将門(たいらのまさかど)を討伐した藤原秀郷(ふじわらひでさと)の流れをくんでいて、初代当主の結城朝光(ゆうきともみつ)は、下野国の武家であった小山政光(おやままさみつ)と、八田宗綱(はったむねつな)の娘の寒河尼(さむかわのあま)との間に生まれたと言われています。結城市史には、母親の寒河尼は、のちに鎌倉幕府の初代将軍となる源頼朝の乳母であったということ、頼朝から「朝」の字を与えられたこと等が書かれており、さらに、前述の八田宗綱は、小田氏の初代当主であったの父親にあたること等から、結城氏は、宇都宮氏、小山氏、小田氏、源氏とつながりがあった武家であることが分かります。 

 

 結城合戦にあっては、第11代当主の結城氏朝(ゆうきうじとも)、第12代当主の結城持朝(ゆうきもちとも)の時代であり、戦いに敗れた結城氏は、一度、滅びたとされています。しかし、鎌倉公方(古河公方)に就いた足利成氏(あしかがなりうじ)の計らいによって、結城氏の再興が許され、氏朝の子であった結城成朝(ゆうきなりとも)が第13代当主に就くこととなりました。その後、成朝は、成氏の企て(関東管領であった上杉憲忠(うえすぎのりただ)の殺害)に加担することとなり、これ以降、結城氏は、古河公方ともに戦国時代を過ごすこととなります。その後、古河公方の衰退とともに、多くの侵略を受けることになりますが、これを何とか食い止め、その後、結城​氏は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)方に付き、小田原征伐(おだわらせいばつ)に参陣します。小田原城(おだわらじょう)が開城されると、後北条(ご・ほうじょう)氏方に付いていた小山氏や小田氏の所領の一部であった小山城(おやまじょう)、土浦城(つちうらじょう)などを安堵されますが、徳川家康(とくがわいえやす)の次男であった秀康(ひでやす)を養子(第18代当主)として迎え入れると、越前国(えちぜんのくに。現在の福井県の一部。)に移封され、加増される運びとなりました。 

小山城跡

写真-86 小山城(祇園城)跡

(現・栃木県小山市城山町地内)

土浦城

写真-87 土浦城

(現・茨城県土浦市中央地内

※上記の時点において東櫓は存在しません。

(6)少し詳しい解説6

 戦国最弱の武将とも言われる小田氏治(おだうじはる)は、小田氏の第15代当主であり、最後の当主でもあります。戦国最弱と言われるようになった所以(ゆえん)としては、居城である小田城を9回も奪われたことにありますが、数々の戦いにおいて命を落としてはおらず、結城氏とともに転じた越前国において生涯を終えたとされています。 

 

 (3)で述べたとおり、筑波町史には、小田氏の始祖であった八田知家の登場から小田氏の流離までの流れが詳しく解説されています。ここでは(3)の続きとして、小田氏が滅ぶに至った流れを要約します。 

 

>>> 第14代当主・小田政治の時代まで 

 

[13]第11代当主の持家(もちいえ)は、上杉禅宗の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)に禅宗方(関東管領方)として参戦するも、禅宗の自死後、所領の一部を失う。[14]第12代当主の朝久(ともひさ)は、室町幕府軍として、結城合戦に参戦する。[15]鎌倉公方(古河公方)の再建に貢献し、以後、古河公方に関りを持つこととなる。[16]第13代当主の成治(しげはる)の長男であった治孝(はるたか)が弟(二男)の顕家(あきいえ)に殺害される。[17]成治の三男であった政治(まさはる)が第14代当主となる。(政治は、足利将軍家の子であったとの説があります。)[18]政治は、積極的な軍事行動をとり、上杉氏の所領となった旧領を取り戻す。 

 

>>> 第15代当主・小田氏治の時代 

 

[19]後北条氏、結城氏らに攻め入られ、海老島城(えびがしまじょう。現在の茨城県筑西市にあった要害。)と小田城を失う。(この戦いを「山王堂合戦(さんのうどうのかっせん)」と言います。)[20]小田城を奪還し、結城氏を攻めるも敗退する。[21]上杉輝虎(うえすぎてるとら。のちに上杉謙信(うえすぎけんしん)となる。)、佐竹義昭(さたけよしあき)、宇都宮広綱(うつのみやひろつな)らに攻め入られ、小田城を失う。[22]小田城を奪還するも、再び、佐竹義重(さたけよししげ)らに攻め入られ、小田城を失う。[23]佐竹義昭逝去の間隙をぬって、小田城を奪還する。[24]再び、上杉輝虎、佐竹義重らに攻め入られ、小田城を失う。[25]武田信玄(たけだしんげん)への接近を試みる。[26]小田城の奪還に成功する。[27]再び、佐竹氏に海老島城、小田城を攻め入られるが、守り抜く。[28]手這坂の戦いで佐竹氏に敗れ、小田城を失い、藤沢城(ふじさわじょう。現在の茨城県土浦市にあった城。)に敗走する。[29]藤沢城から小田城奪還を試みるも、敗走する。[30]小田原征伐で小田原城が落城した時、氏治の子の知治(ともはる)とともに、常陸国を離れる。その後、結城氏に仕え、越前国において最期を迎える。 

(注記)筑波町史(平成元年版)には、小田城が9回にわたって落城したという記述はありません。又、一般的に「海老ケ島城の戦い(えびがしまじょうのたたかい)」と呼ばれている[19]の戦いを「山王堂合戦」と表現し、一般的に「山王堂の戦い(さんのうどうのたたかい)」と呼ばれる[21]の戦いには名称をつけていません。

海老島城跡
新善光寺_案内

写真-79 海老島城跡

(現・新善光寺/茨城県筑西市松原地内)

山王堂合戦場跡

写真-80 山王堂合戦場

(現・茨城県筑西市山王堂地内)

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