常陸国を旅するチャンネル
常陸国の歴史(少し詳しい解説9)
このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。
最終更新 令和6年(2024年)9月 15日
【幕間】常陸国の武家
(平安時代〜戦国時代)
★忙しい方は、次のページに進んでください。
戦国時代までの常陸国においては、これまで解説してきた武家以外にも、多くの武家が存在していました。このページでは、構成上、どうしても解説することができなかった武家のうち、特に知っておきたい武家等について、簡単に解説させていただきます。なお、各武家の解説は、できる限り簡潔に記述させていただきましたが、トータルすると、かなり多い文量になっています。時間にゆとりがある時にお読みいただければ幸いです。(今回の解説には、写真や画像がありません。ご容赦ください。)
【今回、解説する武家の一覧】
(その1)小野崎氏
(その2)笠間氏
(その3)鹿島氏
(その4)宍戸氏
(その5)多賀谷氏
(その6)土岐原氏
(その7)中臣氏
(その8)行方氏
(その9)真壁氏
(その10)水谷氏
(その11)下野国と下総国の武家
(その1)小野崎氏
小野崎(おのざき)氏は、平将門(たいらのまさかど)を討伐した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れをくむ武家であり、久慈川(くじかわ。現在の福島県と茨城県の県境にある八溝山(やみぞさん)から太平洋に至る河川。)の支流である里川(さとがわ。現在の茨城県常陸太田市を南北に流れる河川。)の流域に勢力を持っていたとされています。
平安時代の後期に、常陸国に進出してきた藤原通延(ふじわらみちのぶ?)は、常陸国の北部に太田城(おおたじょう。現在の茨城県常陸太田市中城町にあった城。)を築城し、「太田大夫(おおたのたいふ)」と称していました。その後、通延と同じように、常陸国に進出してきた佐竹(さたけ)氏から太田城の明け渡しを求められると、通延の孫の通盛(みちもり?)は、太田城を佐竹氏に譲り、佐都西郡(さとさいぐん。現在の茨城県久慈郡の一部。)に小野崎城(おのざきじょう。現在の茨城県常陸太田市瑞龍町にあった城。)を構えて、小野崎氏を名乗るようになりました。
太田城を佐竹氏に譲った小野崎氏は、早くから佐竹氏の宿老(しゅくろう)となり、以後、佐竹氏と行動を共にするようになります。常陸国を統一した佐竹氏が、出羽国(でわのくに)の久保田(くぼた。現在の秋田県秋田市。)に移封させられることになった際にも、小野崎氏は、佐竹氏と行動を共にし、出羽国に移り住んでいます。(常陸太田市史の記述を要約しました。)
(その2)笠間氏
笠間(かさま)氏は、下野国(しもつけのくに。現在の栃木県。)を拠点としていた武家、塩谷時朝(しおやときとも。藤原北家(ふじわらほっけ)の流れをくむ武家。宇都宮(うつのみや)氏の庶流。)が、常陸国の笠間(かさま。現在の茨城県笠間市。)を領したことによって始まったとされています。(鎌倉時代の前期のことです。)
南北朝時代、南朝方に付いていた笠間氏は、南朝方の勢力が衰えるのと同時に、自らの勢力も弱めてしまいました。その結果、笠間氏の所領の一部は、摂津(せっつ)氏などの支配を受けることとなり、笠間氏は、室町幕府に対して、笠間12郷(詳細は不明)を安堵(あんど。土地の所領を承認すること。)するように上訴することとなりました。そして、この訴えが認められると、笠間氏による笠間の領有は、戦国時代の末期まで続くこととなりました。
このように、長きにわたって、笠間の領有を続けていた笠間氏でしたが、天正18年(1590年)に起こった小田原征伐(おだわらせいばつ)の直後、何らかの原因によって滅ぼされてしまいます。(滅亡に至った経緯については、諸説あるようです。)滅亡した笠間氏の後には、笠間氏の祖先にあたる宇都宮氏が入部してきましたが、その直後、宇都宮氏は、全国統一を達成した豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって、突然、改易(かいえき)を言い渡され、配流(はいる)に処されてしまいました。(笠間市史の記述を要約しました。)
(その3)鹿島氏
鹿島(かしま)氏は、常陸平氏(ひたちへいし)の多気繁幹(たけしげもと)の子であった大掾清幹(だいじょうきよもと)の三男の成幹(なりもと)が始祖であったとされ、常陸大掾(ひたちだいじょう)氏の庶流として見ることもできます。鹿島氏は、常陸平氏でありながらも、源氏(げんじ)方として戦に参加していたことから、治承5年(1181年)に、源頼朝(みなもとのよりとも)から、鹿島神宮(かしまじんぐう。常陸国一之宮。現在の茨城県鹿島市に所在する神宮。)の神域の非違(ひい)を検断する総追捕使(そうついぶし)に補任されています。南北朝時代においては、北朝方に付き、佐竹氏の下、北畠房親(きたばたけふさちか)が退避していた神宮寺城(じんぐうじじょう。現在の茨城県稲敷市にあった城。)を落城させています。
大永3年(1523年)、鹿島氏は、水戸城(みとじょう。現在の茨城県水戸市にあった城。)を拠点としていた常陸江戸(ひたちえど)氏に攻め込まれ、鹿島城(かしまじょう。現在の茨城県鹿島市にあった城。)を失い、さらに同族の行方(なめがた)氏の庶流であった島崎(しまざき)氏にも欺かれると、鹿島氏の当主であった義幹(よしもと)は、自刃に追い込まれることとなりました。(異説あり。この後、鹿島城は、鹿島氏の下に取り戻されているようです。)天正18年(1590年)の小田原征伐の後、常陸国の統一を目論んでいた佐竹氏は、常陸江戸氏を下総国(しもうさのくに)の結城(ゆうき。現在の茨城県結城市。)に追い込み、府中(ふちゅう。現在の茨城県石岡市。)の大掾氏を滅ぼし、さらには、佐竹氏と共に戦ってきた鹿島氏らの処遇をどうするのか、その決断を迫られました。その結果、佐竹氏は、鹿島氏らの討伐を決め、これを決行しました。このことを「南方三十三館の仕置き(なんぽうさんじゅうさんやかたのしおき)」と言い、これをもって鹿島氏らは滅亡することとなりました。(鹿島町史の記述を要約しました。)
(その4)宍戸氏
宍戸(ししど)氏は、常陸国南部に影響力を持っていた小田(おだ)氏の始祖であった八田知家(はったともいえ)の第四子の家政(いえまさ)を始祖としています。宍戸氏は、常陸国の小鶴荘(こづるのしょう。現在の茨城県笠間市、東茨城郡茨城町など。茨城町の大字には「小鶴」の地名が残っています。)に入部したのち、宍戸氏を名乗ったようですが、どうして地名である「小鶴」を名乗らずに「宍戸」を名乗ったのかは分からないようです。後年、宍戸氏が領した地域は、宍戸荘(ししどのしょう)と呼ばれるようになりました。
八田知家から始まった小田氏は、鎌倉幕府の成立時から小田泰知(おだやすとも。知家の孫。)までの三代にわたり常陸国の守護(しゅご)職にありましたが、次の守護職には、宍戸家周(ししどいえちか?。家政の嫡男。)が補任されています。(これをもって宍戸氏が成立したとも言えるようです。)宍戸氏は、八田氏らと共に、鎌倉時代に編纂された歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」の中に、御家人として鎌倉幕府に関わっていた記述が残っています。
宍戸氏の居城は未だ判明しておらず、小鶴荘内の上郷(かみごう。現在の茨城県笠間市上郷。)で発見された遺構(現在は消滅)が宍戸氏の居城であったのではないかとも推察されているようです。上郷の地には、難台山(なんだいやま。現在の茨城県笠間市に所在する山。)と、難台山城(なんだいやまじょう。難台山の中腹にあった宍戸氏の支城。)があり、後年、小田氏の乱(おだしのらん)における主戦場となりました。宍戸氏は、佐竹氏が出羽国に移封されることになった際、佐竹氏と共に出羽国に渡っています。(岩間町史、友部町史の記述を要約しました。)
(その5)多賀谷氏
多賀谷(たがや)氏にあっては、桓武平氏(かんむへいし)の流れをくむ武家であり、鎌倉幕府の御家人でした。武蔵国埼玉郡騎西荘多賀谷郷(むさしのくに・さいたまぐん・きさいのしょう・たがやごう。現在の埼玉県加須市の一部。)の領地を与えられていた多賀谷氏は、下総国の結城(ゆうき)氏の家臣となり、さらに、鎌倉公方の足利成氏(あしかがなりうじ)から結城合戦(ゆうきかっせん)における功績が認められると、藤原氏流下妻(ふじわらしりゅう・しもつま)氏に代わって、下妻荘(しもつまのしょう。現在の茨城県下妻市。)の安堵を受けることとなりました。
話は、平安時代の中期、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)の直後まで遡ります。当時の常陸国にあっては、平将門(たいらのまさかど)を討伐した常陸平氏の支配下に置かれていて、特に、下妻荘にあっては、その庶流の下妻(しもつま)氏の支配下に置かれていました。さらに、時は流れて、鎌倉時代に入ると、藤原北家の流れをくむ下野国の武家の小山(おやま)氏らが常陸国に進出し、常陸平氏庶流の下妻氏を滅ぼしてしまいました。小山氏の庶流は、自らを下妻氏と名乗るようになり、下妻荘に定着しました。なお、常陸平氏庶流の下妻氏を滅ぼした小山氏庶流の下妻氏は「藤原氏流下妻氏」などと呼ばれ、常陸平氏庶流の下妻氏と区分されています。
下妻荘に定着した藤原氏流下妻氏でしたが、その支配は長く続きませんでした。鎌倉幕府の実権を握っていた北条(ほうじょう)氏の庶流の大仏(おさらぎ)氏らが常陸国に進出してくると、常陸国の多くの地域は、大仏氏を含む北条氏一門によって奪われてしまうこととなります。やがて、鎌倉幕府が滅亡すると、北条氏一門によって奪われた所領の多くは、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)らのものとなり、さらには、先述のとおり、下妻荘が多賀谷氏のものとなっていきます。これ以降、多賀谷氏は、自らの居城となる多賀谷城(たがやじょう。下妻城(しもつまじょう)とも言います。)を築き、戦国時代の末期に至るまで、長く下妻の地を治めることとなります。関ヶ原の戦いの後は、出羽国(でわのくに。現在の秋田県、山形県など。この場合は、秋田県。)、越前国(えちぜんのくに。現在の福井県の一部。)などに移封させられることとなります。(下妻市史の記述を要約しました。)
(その6)土岐原氏
土岐原(とき・はら)氏は、美濃国(みののくに。現在の岐阜県南部など。)の守護職であった土岐(とき)氏の庶流であり、南北朝時代に、原秀成(はらひでなり)が、関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲顕(うえすぎのりあき)の家臣になったことによって、常陸国の信太庄惣政所(しだのしょうそうまんどころ。土地(この場合、信太荘(しだのしょう。現在の茨城県稲敷市。)の土地)に根付いて統治する職務者)となり、自らが築城した江戸崎城(えどさきじょう。現在の茨城県稲敷市江戸崎にあった城。)を居城としました。
土岐原氏は、周辺から一目置かれるような領主となり、小田原が平定されるまでの約200年間にわたり、当地を支配することとなりました。結城合戦に参戦したことを示す記録が残っているほか、古河公方の足利氏と関東管領の上杉氏が対立した時には、反古河公方の立ち位置にあったと推測されています。第5代当主となった治頼(はるより)は、美濃国の土岐宗家から養子として江戸崎に入っています。大永3年(1523年)3月、小田氏との間に「屋代城合戦(やしろじょうかっせん。支城の屋代城(現在の茨城県龍ヶ崎市にあった城)における戦い。)」が開戦しましたが、治頼は、これに勝利し、以後は、小田氏と良好な関係を築いたようです。
小田原征伐の際、土岐原氏は、後北条(ご・ほうじょう)氏方に付き、豊臣秀吉方に敗れる形になりました。そして、豊臣秀吉方の佐竹氏によって、江戸崎城を攻め落とされ、土岐原氏は、諸国を流浪することになったようです。なお、小田原征伐時の土岐原氏は、居城の江戸崎城のほか、龍ヶ崎城(りゅうがさきじょう。現在の茨城県龍ヶ崎市にあった城。)、木原城(きはらじょう。現在の茨城県稲敷郡美浦村木原にあった城。)といった支城の兵力も合わせて、1500騎の軍勢を有していたと言われています。(江戸崎町史資料の記述を要約しました。)
(その7)中臣氏(大中臣氏、藤原氏)
中臣(なかとみ)氏は、鹿島神宮(かしまじんぐう。茨城県鹿嶋市宮中にある神宮。常陸国一之宮。)の神祇祭祀をつかさどっていた一族であり、中でも、大化の改新(たいかのかいしん。飛鳥時代における政治改革。)において中心的な役割を果たした中臣鎌足(なかとみのかまたり)は有名です。
中臣鎌足は、常陸国の鹿島で生まれたと言われており、鹿島神宮から西へ1kmほど向かった場所には、鎌足神社(かまたりじんじゃ)が置かれています。このことを否定する考察(奈良県のウェブサイトにおいては、鎌足は大和国(やまとのくに。現在の奈良県。)に生まれたと紹介しています。)もありますが、平安時代の歴史物語「大鏡(おおかがみ)」には、「鎌足と申すは、もと常陸国鹿島の人なり。本姓は大中臣なり。」との記述(現代語訳)も存在しています。鎌足は、逝去する直前、天智天皇(てんちてんのう)から藤原朝臣姓(ふじわらのあそんのかばね)を賜ることとなり、以後、藤原氏にあっては、長きにわたって、摂関政治(せっかんせいじ)の中心的な役割を果たしていくこととなります。なお、常陸国における藤原氏の庶流については、小田氏、小野崎氏、常陸江戸氏といった武家を挙げることができます。
鹿島神宮の宮司は、代々、鹿島に住む中臣鹿島連(なかとみのかしまのむらじ)が世襲していきましたが、延暦16年(797年)、京から左大臣大中臣朝臣清麿(さだいじんおおなかとみのあそんのきよまろ)の子の清持(きよもち)が鹿島神宮の宮司に補されることになりました。そして、これ以降、中臣氏、大中臣氏が交互に宮司を世襲していくことになっていきます。
藤原不比等(ふじわらのふひと)の時代、自らの氏神であった鹿島神宮、香取神宮(かとりじんぐう。現在の千葉県香取市香取にある神宮。下総国一之宮。)の神を奈良(なら)に勧請(かんじょう。招き入れること。)すると、春日大社(かすがたいしゃ。奈良県奈良市春日野町にある神社。)を創建し、春日大社から鹿島神宮に祭使(さいし。朝廷から神社に派遣される使者。)を派遣するようになつたと言われています。(鹿島町史の記述を要約しました。)
(その8)行方氏
行方(なめがた)氏は、常陸平氏の多気繁幹の子であった大掾清幹の二男の忠幹(ただもと)が始祖であったとされ、自らを行方次郎(なめがたじろう)又は行方四郎(なめがたしろう)と称して、行方(現在の茨城県行方市など)に居を構えたとされています。忠幹の子であった景幹(かげもと)は、源頼朝から地頭職を与えられると、荒野開発を推し進め、四六村(しろくむら。現在の茨城県行方市四鹿。)を誕生させました。鎌倉時代においては、鹿島神宮の大禰宜(おおねぎ)職にあった中臣(なかとみ)氏との間に、大禰宜職をめぐる争いがあったとも記録されているようです。
南北朝時代、南北朝合一後の行方氏については、常陸国と周辺諸国における戦いに参じていたという明確な記録を確認することができない一方で、鹿島神宮との結びつきが強かった常陸平氏の一族として、七年に一度、鹿島大使役を勤めていたこと等が確認されています。なお、このことについては、嫡流の行方氏のほか、行方氏庶流の行方麻生(あそう)氏、行方小高(こだか)氏、行方玉造(たまづくり)氏、行方島崎(しまざき)氏、行方手賀(てが)氏なども、自らを行方氏と称して、鹿島大使役を勤めていたとされています。
天正18年(1590年)、常陸国の統一を目論んでいた佐竹氏によって南方三十三館の仕置きが決行され、これをもって行方氏は滅亡することとなりました。(麻生町史の記述を要約しました。)
(その9)真壁氏
真壁(まかべ)氏は、桓武平氏の流れをくむ武家であり、常陸国の国司を務めた多気直幹(たけなおもと)の子、長幹(たけもと)を始祖とします。(下妻氏の始祖となった広幹(ひろもと)は、長幹の兄に当たります。)長幹は、多気氏の居城であった多気城(たけじょう。現在の茨城県つくば市北条にあった城。)から北方へ10数kmの位置に真壁城(まかべじょう。現在の茨城県桜川市真壁町古城にあった城。)を築城し、自らの拠点としました。
鎌倉時代に編纂された歴史書「吾妻鏡」の中には、宍戸氏らと同じく、真壁氏が御家人として鎌倉幕府に関わっていた記述を確認することができるほか、真壁郡内の地頭(じとう)職を安堵されていたとも言われています。ちなみに、地頭とは荘園(しょうえん)の管理者のことであり、荘園とは国から所有を認められた農地等のことを言います。(当時、全ての土地は、基本的に国の所有物でした。)
南北朝時代においては、当初、南朝方に付いた真壁氏でしたが、途中、北朝方に寝返ったようであり、南北朝合一後においては、将軍家から知行地(ちぎょうち。支配の権利を持つ土地。)の安堵を受けています。さらに、真壁氏は、室町幕府の京都扶持衆(きょうとふちしゅう。室町幕府と主従関係を結んだ武士。)となり、鎌倉公方(かまくらくぼう)が古河公方(こがくぼう)となった後には、古河公方の旗下(きか)で働いていた記録を確認することができるようです。
戦国時代においては、「鬼真壁(おにまかべ)」とも言われた真壁氏幹(まかべうじもと)や真壁久幹(まかべひさもと。氏幹の父。)の活躍があります。佐竹氏寄りの行動を取った真壁氏は、小田城(おだじょう。現在の茨城県つくば市にあった城。)を拠点としていた小田氏治(おだうじはる)氏と対峙し、勝利しています。佐竹氏が常陸国を統一すると、佐竹氏の家臣として働くようになりましたが、徳川家康(とくがわいえやす)が関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣(とよとみ)政権が事実上崩壊すると、佐竹氏と共に、出羽国に移封されることとなりました。(真壁町史資料の記述を要約しました。)
(その10)水谷氏
水谷(みずのや)氏は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れをくむ武家であり、鎌倉時代には、亀谷(かめがやつ。現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷。)に住し、亀谷(かめがやつ)の姓を名乗っていたようです。近江国犬上郡水谷郷(おうみのくに・いぬかみぐん・みずのやごう。現在の滋賀県犬上郡多賀町水谷。)を所領したことをきっかけに、水谷の姓を名乗るようになり、その後、下総国の結城に入ることとなりました。永享12年(1440年)の結城合戦では、常陸国に入部してから3代目に当たる水谷時氏(みずのやときうじ)が、結城氏とともに結城城に籠城し、討死するに至っています。文明10年(1487年)、献身的に結城氏に尽くした功により、結城氏から下館(しもだて。現在の茨城県筑西市。)を与えられ、下館城(しもだてじょう。現在の茨城県筑西市にあった城。)の築城が認められました。その後も結城氏の重臣としての位置を占め、関ヶ原の戦い後も、徳川家康に地位を認められ、下館に残っていましたが、備中国(びっちゅうのくに。現在の岡山県の一部。)に転封させられることとなってしまいました。なお、水谷氏が入部する以前の下館には、同じく藤原秀郷の流れをくむ伊佐(いさ)氏の存在がありました。伊佐氏は、陸奥国(むつのくに)に拠点を置いた伊達(だて)氏の祖であり、戦国武将であった伊達政宗(だてまさむね)につながっていきます。平安時代の後期から下館に拠点を置いた伊佐氏は、伊佐実宗(さねむね)を始祖とし、少なくとも、第5代当主であった朝宗(ともむね)の代まで下館を拠点としていました。朝宗は、源頼朝による奥州征伐(おうしゅうせいばつ)に従軍し、その軍功により、伊達郡(だてぐん。現在の福島県伊達市周辺。)を与えられています。朝宗の二男であった宗村(むねむら)は、伊達郡に移り住み、伊達氏を名乗ったと言われています。伊佐氏については、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」において存在を確認することができます。(下館市史の記述を要約しました。)
(その11)下野国と下総国の武家
この説では、常陸国に隣接し、常陸国の武家とのつながりが多い、下野国、下総国の武家について、少しだけ解説しておくこととします。
はじめに、下野国の武家です。常陸国とつながりのあった主な武家としては、宇都宮(うつのみや)氏、小山(おやま)氏、那須(なす)氏などを挙げることができます。宇都宮氏、小山氏、那須氏にあっては、藤原北家(ふじわらほっけ)の流れをくんでいて、小田氏、笠間氏、宍戸氏といった常陸国の武家にもつながります。
まずは、宇都宮氏からです。藤原宗円(ふじわらのそうえん)に始まったとされる宇都宮氏にあっては、第2代当主であった八田宗綱(はったむねつな)の子に常陸国の武家となった八田知家(小田氏の始祖)がいたほか、小田氏の庶流である宍戸氏、先に解説した笠間氏、さらに、後述する小山氏とのつながりを持っていました。戦国時代においては、第22代当主の国綱(くにつな)が、佐竹氏から妻を迎え入れていたこともあり、佐竹氏と行動を共にすることが少なくありませんでした。戦国時代の終盤に起こった小田原征伐では、豊臣秀吉方に付き、秀吉方が勝利した結果をもって、下野国における所領の安堵を受けることとなりましたが、予期せぬことに、秀吉から改易を言い渡され、武家としての宇都宮氏は滅びることとなりました。
続いては、小山氏です。太田政光(おおたまさみつ。のちに小山政光と称しました。)に始まったとされる小山氏は、藤原秀郷の流れもくんでいて、初代当主の政光は、宇都宮氏の第2代当主であった八田宗綱の娘、寒川尼(さむかわのあま。源頼朝の乳母。)を後妻に迎えています。先述のとおり、寒川尼の父に当たる宗綱は八田知家の父でもあり、小山氏は、小田氏、宍戸氏ともつながりを持っていたほか、後述する結城氏ともつながりを持っていました。小山氏は、南北朝時代にあった小山氏の乱、戦国時代にあった享徳の乱において、その嫡流が滅んだとされていて、その都度、庶流によって再興されたと言われています。滅亡と再興を繰り返した小山氏は、小田原征伐の少し前に起こった後北条氏との戦いにおいて劣勢となり、佐竹氏の下に逃げ込むこととなりました。佐竹氏の下で小山城の奪還に向けて動くことになった小山氏でしたが、結果的に、小山城の奪還を果たすことはできず、武家としての小山氏は滅びることとなりました。
続いては、那須氏です。藤原資家(ふじわらのすけいえ)に始まったとされる那須氏にあっては、多くの場合、宇都宮氏や佐竹氏と敵対する関係にありました。佐竹氏が勢力拡大に動いていた際、幾度にもわたって、佐竹氏と対峙する場面がありましたが、自らの所領を守り抜き、佐竹氏に所領を奪われることはありませんでした。しかし、那須氏は、戦国時代の終盤に起こった小田原征伐の際、自ら出陣することなく、静観する態度をとってしまいました。このことは、秀吉の怒りを買い、所領を没収されてしまうといった結果を生むこととなりました。
次は、下総国の武家についてです。常陸国とつながりのあった主な武家としては、千葉(ちば)氏、結城(ゆうき)氏などを挙げることができます。千葉氏にあっては、桓武平氏(かんむへいし)の流れをくんでいて、結城氏にあっては、藤原北家や小山氏の流れをくんでいます。
まずは、千葉氏からです。常陸平氏の始祖となった平国香(たいらのくにか)の弟の孫の平忠常(たいらのただつね)に始まったとされる千葉氏ですが、忠常の曾孫に当たる平常兼(たいらのつねかね)が初代当主であったとの考察がなされています。第3代当主の千葉常胤(ちばつねたね)の時代、治承4年(1180年)に起こった「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」に源氏方として参戦すると、源氏方の勝利に伴って鎌倉幕府の御家人となり、下総国の守護職(千葉氏は自らの職を「千葉介(ちばのすけ)」と呼んでいたと言われています。)に命じられています。治承・寿永の乱の前後において、常陸国の佐竹氏との間に、相馬御厨(そうまみくりや。現在の茨城県取手市、守谷市、千葉県我孫子市、柏市など。)をめぐる領地争いがあったとされていますが、その後、千葉氏は、一族の分裂を繰り返してしまい、その嫡流は衰退し、その勢力が再興することはありませんでした。
続いては、結城氏です。小山氏の初代当主であった小山政光の三男、朝光(ともみつ)に始まったとされる結城氏は、寿永2年(1183年)に起こった野木宮合戦(のぎみやかっせん。平家の討伐を進めていた源頼朝らと、常陸国の信太荘(しだのしょう。現在の茨城県稲敷市周辺。)を本拠地としていた源義広(みなもとのよしひろ。頼朝の叔父。)らが、下野国の野木宮(のぎみや。現在の栃木県下都賀郡野木町)において争った。朝光は、頼朝方に付いて参戦し、頼朝方の勝利に貢献した。)における功績によって、結城郡(ゆうきぐん。現在の茨城県結城市など。)の地頭職となり、結城の地に定着しました。南北朝時代においては、結城氏の庶流が南朝方に付くことになったものの、嫡流は一貫して北朝方に付いて、北朝方に貢献したため、結城氏は、関東八屋形の一人として認められることとなりました。その後の結城氏については、少し詳しい解説5、少し詳しい解説7に記述したとおりであり、結城合戦における滅亡と再興、山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏との抗争、小田原征伐への参戦、越前国(えちぜんのくに。現在の福井県の一部。)への移封とつながっていきます。なお、結城氏と常陸国の武家とのつながりについては、先述のとおり、家臣の水谷氏に下館の所領を与えていたり、常陸国の武家であった小田氏(小田氏初代当主の八田知家は、小山氏初代当主の小山政光の義兄に当たります。)と対峙したり、さらには、武家として滅んだ小田氏を家臣として迎え入れたりと様々な場面でつながりを持っていました。
この節の締め括りとして、古河公方の成立により、鎌倉から古河に移り住むこととなった足利氏についても触れておきたいと思います。そもそも、足利氏は、佐竹氏と同じく、清和源氏(せいわげんじ)の流れをくむ武家であり、下野国の足利荘(あしかがのしょう。現在の栃木県足利市。)に土着していました。鎌倉時代の末期になると、後醍醐天皇と共に北条氏を滅ぼし、後醍醐天皇が新たな親政(建武の新政)を開くと、これに反抗し、京の室町に新たな武家政権(室町幕府)を開くこととなりました。以降、足利氏は、征夷大将軍の職を世襲することとなりますが、相模国(さがみのくに。現在の神奈川県の大部分。)の鎌倉にも、東国10か国を監視するための鎌倉府が置かれて、さらには、その役職として、鎌倉公方と関東管領が置かれることとなり、鎌倉公方には足利基氏(あしかがもとうじ。初代将軍となった尊氏の四男。)、関東管領には上杉憲顕(うえすぎのりあき)らが就くこととなりました。やがて、鎌倉公方は足利氏の世襲となり、関東管領は上杉氏の世襲となっていきますが、両者は対立するようになり、長きにわたる抗争に発展してしまいます。上杉氏らに追い詰められた第4代鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)が自害したことで、一度、鎌倉公方は途絶えてしまいますが、持氏の子の成氏が第5代鎌倉公方に就くこととなり、鎌倉公方は復活することとなりました。このことで、足利氏と上杉氏の対立は激しさを増し、成氏が鎌倉府に入れなくなるという事態に陥ることとなってしまいます。その結果、成氏は、下総国の古河に拠点を移すこととなり、鎌倉公方は古河公方と称することとなりました。その後、足利氏は、結城氏と共に、上杉氏と対峙していきますが、室町幕府の消滅に同じく、次第に衰退の道を歩んでいきました。やがて、足利氏の末裔は、下野国の喜連川(きつれがわ。現在の栃木県さくら市喜連川地区。)に土着し、10万石格の大名、喜連川(きつれがわ)氏として残ったとされています。(過去の記述、宇都宮市史、小山市史、烏山町史、千葉市史、結城市史、古河市史を要約しました。)