常陸国を旅するチャンネル
常陸国の歴史(少し詳しい解説1)
このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。
最終更新 令和6年(2024年)5月18日
常陸国の歴史(紹介ページ)はご覧いただいたでしょうか。このページでは、常陸国の歴史に対する理解度を深めていただくため、紹介ページを少し詳しく解説させていただきます。
(1)常陸国のあらまし
(飛鳥時代~奈良時代)
【西暦794年まで】
常陸国は、東海道(とうかいどう)の東端に位置するかつての令制国(りょうせいこく)の一つであり、県南・県西地域の一部を除いた現在の茨城県に相当します。東海道と言えば、江戸時代に位置づけられた江戸(えど。現在の東京都。)から京(きょう。現在の京都府。)に至る街道(太平洋沿いのルート。五街道の1つ。)をイメージしてしまいますが、古代日本の行政区画という視点で見ると、常陸国は東海道に属しているということになります。(図-1)
和銅6年(713年)に編纂された「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」によると、常陸国の古(いにしえ)は、新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の国と呼ばれていて、孝徳天皇(こうとくてんのう)の時代(645年-654年)に足柄の坂(あしがらのさか。現在の神奈川県・県西地域。)より東の国が8つの国となり、常陸国はその1つの国として現れたとされています。
常陸国風土記では、編纂時における各地域について、新治(にひばり)・白壁(しらかべ)・筑波(つくは)・河内(かふち)・信太(しだ)・茨城(うばらき)・行方(なめかた)・香島(かしま)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の郡(こおり)に区分し、各地域における特徴や昔話を紹介しています。なお、当時の郡を示した図-2については、かつて、陸奥国(むつのくに。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県など。)の白河郡(しらかわのこおり。現在の茨城県久慈郡大子町を含む福島県東白川郡周辺。)に属していたエリア(現在の久慈郡大子町)の色合いを変えて区分しています。

図-1 常陸国の位置

図-2 常陸国風土記における11の郡
孝徳天皇の時代とは、飛鳥時代(592年-710年)の中期のことであり、「大化の改新(たいかのかいしん。645年-650年)」があった時代でもあります。大化の改新とは、蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺・「乙巳の変(いっしのへん)」に始まる内政改革で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。のちの天智天皇(てんちてんのう)のこと。)、中臣鎌足(なかとみのかまたり。のちの藤原鎌足(ふじわらのかまたり)のこと。)らを中心として、中央集権国家の実現を目指して取り組まれた様々な改革です。これ以降、大和朝廷(やまとちょうてい)は、律令制(りつりょうせい)による国家運営を始めました。
やがて、常陸国にも「国司(こくし)」や「国庁(こくちょう)」が置かれることとなりました。ちなみに、国司とは、中央から派遣されて諸国の政務を行った地方官の総称であり、国庁とは、国司が政務をとった役所のことを言います。さらに、国庁とその周辺の「曹司(ぞうし。役所の建物、庁舎のこと。)」を含めた空間のことを「国衙(こくが)」、国衙周辺の関連施設を含めた空間のことを「国府(こくふ)」と言い、JR常磐線・石岡駅から徒歩15分程度の場所に、常陸国の国府の遺構(国指定史跡「常陸国府跡」)が保護・保存されています。

図-3 常陸国の国府の位置
写真-1 常陸国府跡の碑
(現・石岡市立石岡小学校)
(2)承平天慶の乱と常陸平氏の台頭
(平安時代初期~鎌倉時代初期)
【西暦794年~1200年頃まで】
時は、奈良時代(710-794年)を経て、平安時代(794年-1185年)の中期まで進みます。大和朝廷下の諸国では、中央から派遣された国司が政務を担っていましたが、やがて、私腹を肥やす国司が現れるようになり、諸国の政治は乱れていきました。そのような時代背景の中、承平元年から天慶10年(931年-947年)にかけて、大和朝廷を揺るがす「承平天慶の乱(じょうへいてんけいのらん)」が起こりました。常陸国にあっては、天慶2年(939年)11月に、国府が攻め落とされ、たった数か月間ではあったものの、平将門(たいらのまさかど)の支配下に置かれました。
将門に攻め落とされた常陸国でしたが、天慶3年(940年)2月、平貞盛(たいらのさだもり)らの追討によって、将門が討ち取られる結果となりました。将門を討ち取った貞盛は、常陸国における所領を増やし、その弟である平繁盛(たいらのしげもり)は、常陸国の国司(常陸大掾・ひたちだいじょう)に任じられました。なお、桓武天皇(かんむてんのう)の流れをくみ、「平」の姓を名乗る一族のことを「桓武平氏(かんむへいし)」と言い、さらに、桓武平氏の流れをくみ、平国香(たいらのくにか)を祖として常陸国を拠点とした平氏を「常陸平氏(ひたちへいし)」、国香を祖としながら常陸国を離れた平氏を「伊勢平氏(いせへいし)」と言います。伊勢平氏については、一般的に「平家(へいけ)」とも呼ばれ、のちに、源氏(げんじ。正しくは「清和源氏(せいわげんじ)」と言います。)によって滅ぼされることになります。
ちなみに、承平天慶の乱については、坂東(ばんどう。現在の関東地方のことを言います。詳しくは注記を確認してください。)一円で起こった「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」と、瀬戸内海で起こった「藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)」に分けることができます。特に、平将門の乱については、承平5年から天慶3年(935年-940年)に起こった平将門による反乱のことであり、常陸国の国府を攻め落とした天慶2年(939年)11月から、平貞盛らによって討ち取られた天慶3年(940年)2月までの出来事を指すことが一般的です。そもそも、平将門の乱は、所領をめぐる同族間の争いがきっかけであって、新政府の樹立を目的として始めた内乱ではなかったと言われています。又、討伐された側の将門は、国香の弟であった平良将(たいらのよしまさ)の子であって、討伐した側の貞盛と繁盛は、国香の子といった間柄(従兄弟)でした。貞盛らに討ち取られた将門の首は、のちに京でさらされることとなり、江戸の地まで飛んでいったとの伝説もあります。
下の写真については、写真-2が、平将門の本陣の跡、写真-3が、平将門を祀る神社を撮影したものであり、共に、常陸国に隣接する下総国(しもうさのくに)の岩井(いわい。現在の茨城県坂東市。)に所在しています。将門を討伐した側の繁盛の子孫は、常陸国の多気(たけ。現在の茨城県つくば市北条。)に根付き、のちに自らを多気(たけ)氏と称するようになりました。
(注記)元来、足柄の坂(現在の神奈川県・県西地域)より東側は「坂東」と呼ばれていました。そもそも、「関東」という言葉は、畿内(きない。都(みやこ)の周辺のことを言います。)から見て東側を指していた言葉でしたが、江戸時代の頃から、「坂東」という言葉が「関東」に置き換わってしまったと言われています。(その理由は、諸説あります。)奈良時代以降、畿内の周囲には、三関(さんげん)と呼ばれる3つの関があり、北から順に、愛発関(あらちのせき。現在の福井県敦賀市。)、不破関(ふわのせき。現在の岐阜県関ケ原町。)、鈴鹿関(すずかのせき。現在の三重県鈴鹿市。)がありました。ただし、のちに愛発関は、「逢坂関(おうさかのせき。現在の滋賀県大津市。)」に取って代わられることになってしまいます。つまり、三関より東側は、全て関東だったということになります。ちなみに、室町時代、鎌倉府(かまくらふ)に置かれた「関東管領(かんとうかんれい)」の「関東」については、東国(あずまのくに/とうごく。東日本のことを言います。)を指した言葉であり、現在の関東地方を指した言葉ではありません。

図-4 平将門戦跡図
(出典:水海道市史)
写真-2 島広山・石井営所跡
(現・茨城県坂東市岩井地内)
写真-3 國王神社
(現・茨城県坂東市岩井地内)
時は少し進んで、治承3年(1179年)のことです。京で日本初の武家政権を誕生させた平清盛(たいらのきよもり)は、のちに「治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)」と呼ばれる政変を引き起こし、後白河法皇(ごしらかわほうほう)を幽閉してしまいました。そして、この政変によって幽閉された後白河法皇の第三皇子であった以仁王(もちひとおう)は、その翌年(治承4年・1180年)に平氏追討を決意し、平清盛ら(平家)を朝廷から追放することを企てました。この企て自体は失敗に終わってしまいましたが、のちに、新たな武家政権の祖となる源頼朝(みなもとのよりとも)らが武士団を結成し、挙兵することとなりました。これが世に言う「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」の始まりです。
寿永4年3月24日(1185年4月25日)、平氏追討を進めていた源頼朝らは、壇ノ浦での戦い(一般的に「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」と言います。)において勝利(頼朝の弟・源義経(みなもとのよしつね)らの奇襲攻撃によって勝利)し、6年にも及んだ治承・寿永の乱が終焉を迎えました。平家は滅亡し、勝利した源頼朝は、鎌倉の地に新たな武家政権(江戸時代中期以降、「鎌倉幕府」と呼ばれるようになりました。以下、源頼朝が開いた武家政権を「鎌倉幕府」と言うこととします。)を開き、ここに鎌倉時代が始まります。なお、平家の滅亡については、伊勢平氏が滅亡しただけであって、常陸平氏を含む諸国の平氏が滅亡したわけではありません。
源頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192年)の翌年、常陸国では、のちに鎌倉幕府の十三人の合議制の一員となる八田知家(はったともいえ)と多気義幹(たけよしもと)との間に争いが勃発し、多気義幹が失脚するという政変が起こりました。その結果、多気氏の庶流であった吉田資幹(よしだすけもと)が常陸大掾に任じられ、これをもって、長きにわたって常陸国に台頭する常陸大掾(ひたちだいじょう)氏が成立したと言われています。なお、多気氏を失脚させた八田知家については、下野国(しもつけのくに。現在の栃木県。)の武家であった宇都宮宗綱(うつのみやむねつな)の子であって、のちに常陸国の南部地域において勢力を保った小田(おだ)氏の始祖となったとされています。
吉田氏(常陸大掾氏)は、常陸国第三宮の吉田神社から約1kmの位置に吉田城(よしだじょう)を構えていましたが、建久年間(1190年~1198年)において、吉田城から約3kmの位置に新たな城を築きました。吉田氏は、馬場(ばば)氏とも呼ばれていたことから、この城は馬場城(ばばじょう)と呼ばれ、のちに、水戸城(みとじょう)と呼ばれるようになります。馬場城は、馬場氏(吉田氏、常陸大掾氏)が、応永33年(1426年)に、常陸江戸(ひたちえど)氏に追討されるまでの約230年間、常陸国の多くを影響下に置き続けました。
写真-4 多気城跡(奥に見える山林が多気城跡)
(現・茨城県つくば市北条地内)
写真-6 吉田城跡(吉田氏の居館)
(現・常照寺/茨城県水戸市元吉田町地内)
写真-5 吉田神社
(現・茨城県水戸市宮内町地内)
写真-7 馬場城(水戸城)空堀
(現・茨城県水戸市三の 丸地内)
(3)常陸源氏の台頭と金砂城の戦い
(平安時代末期~鎌倉時代初期)
【西暦1180年~1200年頃まで】
平安時代末期になると、のちに常陸国の覇者となる「常陸源氏(ひたちげんじ)」の佐竹(さたけ)氏が台頭してきます。佐竹氏の成り立ちについては、源頼朝と同じ清和源氏であり、その流れくむ源義光(みなもとのよしみつ)の孫の昌義(まさよし)から始まったとされています。昌義は、天承元年(1131年)頃、佐竹郷(さたけごう。現在の茨城県常陸太田市天神林町周辺。)に馬坂城(まさかじょう)を構えて、佐竹氏を名乗ったと言われており、さらに、第2代当主となった隆義(たかよし。昌義の四男。)が、太田城(おおたじょう。現在の茨城県常陸太田市中城町にあった城。平貞盛と共に、平将門を討伐した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れをくむ武家・藤原通盛(ふじわらみちもり)が城主であったと言われています。)に入城すると、以後、佐竹氏が出羽国(でわのくに)の久保田(くぼた。現在の秋田県秋田市。)に移封されるまでの間、太田城は、佐竹氏の居城として使われることとなります。
佐竹氏は、清和源氏の流れをくみながらも、伊勢平氏(平家)側の立ち位置にありました。このことが、平氏追討に奔走していた源頼朝らの討伐の対象となってしまい、隆義の長男の義政(よしまさ)や、のちに第3代当主となる三男の秀義(ひでよし)らが、当時、佐竹氏の要害であった金砂城(かなさじょう。現在の茨城県常陸太田市上宮河内町にあった城。)において応戦することとなりました。治承4年(1180年)に起こったこの戦いを「金砂城の戦い(かなさじょうのたたかい)」と言い、佐竹氏はこの戦いに敗れてしまいました。一族の滅亡こそは免れた佐竹氏でしたが、この敗戦によって、しばらくの間、不遇の時代を過ごす結果となりました。
写真-8 馬坂城址
(現・茨城県常陸太田市天神林町地内 )
写真-10 佐竹寺(佐竹郷にある寺院)
(現・茨城県常陸太田市天神林町地内)
写真-9 太田城址(舞鶴城址)
(現・市立太田小学校/茨城県常陸太田市中城町地内)
写真-11 金砂城址(西金砂神社隣接地)
(現・茨城県常陸太田市上宮河内町地内 )