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常陸国の歴史(少し詳しい解説2)
このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。
最終更新 令和6年(2024年)5月18日
【幕間1】常陸国の神社の歴史について
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現代の日本人の多くは、宗教を全く意識せず生活しているものと推察します。しかし、国によっては(多くの国にあっては)、宗教は、生活に、政治に、密接な関りをもっています。かつての日本においても、宗教は、特に、神道と仏教は、生活に、政治に、密接な関りを持っていました。
平安時代中期、延長5年(927年)に編纂された「延喜式(えんぎしき)」の巻九と巻十、いわゆる「延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)」には、全国にある神社の一覧が掲載されており、常陸国にあっては、28の神社(大社7座、小社21座)が記載されています。そのうち大社(正しくは「名神大社(みょうじんたいしゃ)」と言います。)の分布については、図-5のとおりであり、小社の分布については、図-6のとおりになります。(明治時代に制定された「近代社格制度」の社格とは異なります。)
7つの大社を創建の順に並べると、おおよそ、鹿島神宮、筑波山神社、稲田神社、吉田神社、静神社、大洗礒前薬師菩薩明神社、酒烈礒前薬師菩薩神社の順(各神社の公式ホームページの記載等に基づきます。)であり、最古の鹿島神宮と大洗礒前薬師菩薩明神社(酒烈礒前薬師菩薩神社)を比較すると、創建の年に1500年以上の開きがあることが分かります。それでは、創建の順に、7つの大社のあらましを確認していきましょう。(小社については、少し詳しい解説7を確認してください。)

図-5 常陸国の大社

図-6 常陸国の小社(分布図)
(凡例)鳥居:大社、丸印:小社
(1)鹿島神宮〈かしまじんぐう〉
鹿島神宮は、常陸国一之宮であり、常陸国の鹿島郡(かしまのこおり(創建当時)。現在の鹿嶋市。)に所在する神社です。香取海(かとりのうみ。現在の霞ヶ浦(かすみがうら)のことを言います。一般的に、霞ヶ浦は、西浦(にしうら)のことを指すため、北浦(きたうら)又は鰐川(わにがわ)と表現したほうが分かりやすいかもしれません。)のほとりに所在し、下総国(しもうさのくに。現在の茨城県南西部、千葉県北部など。)一之宮である香取神宮(かとりじんぐう)、常陸国の国史見在社(こくしけんざいしゃ)である息栖神社(いきすじんじゃ)と共に東国三社(とうごくさんじゃ)に数えられています。鹿島神宮の公式ホームページには、「鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。」との記載があり、神武天皇元年(紀元前660年)に創建された由緒ある神社であることが分かります。御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。ただし、常陸国風土記(ひたちのくにふどき)では、香島之天之大神(かしまのあめのおほかみ)であるとされています。
写真-12 鹿島神宮
(現・茨城県鹿嶋市宮中地内)
写真-13 鹿島神宮奥宮
(現・茨城県鹿嶋市宮中地内)
(2)筑波山神社(つくばさんじんじゃ)
筑波山神社は、その名のとおり、筑波山(つくばさん。現在の茨城県つくば市にある山。)に所在する神社であり、その社は、2つある山頂と中腹に建立されています。筑波山と言えば、「西の富士、東の筑波」とも称される坂東(ばんどう。現在の関東地方のこと。)を代表する山であり、男体山(なんたいさん)と女体山(にょたいさん)の総称でもあります。大社である筑波山神社は、男体山の山頂(標高871m)に位置し、その御祭神は、筑波男大神(伊弉諾尊・いざなぎのみこと)であるとされています。一方、女体山の山頂(標高877m)にも小社があり、その御祭神は、筑波女大神(伊弉冊尊・いざなみのみこと)であるとされています。筑波山神社の公式ホームページには、その創建について「第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。」との記載があり、崇神天皇元年から崇神天皇68年の間(紀元前97年から紀元前30年の間)に創建されたものとして推測することができます。

写真-14 筑波山神社
(大社・男体山山頂)

写真-15 筑波山神社
(小社・女体山山頂)
(3)稲田神社(いなだじんじゃ)
稲田神社は、常陸国の新治郡(にいはりのこおり(創建当時)。現在の笠間市。)に所在する神社です。全国の神社を解説する「明治神社誌料(めいじじんじゃしりょう)」には「新治国造(にいはりのくにのみやつこ)の祭りし所なり」との記載があり、稲田神社が新治国造が存在していた時代に存在していたことを確認することができます。さらに、常陸国風土記や国造本記(こくぞうほんぎ。先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)の巻第10のこと。以下の記載の一部は「日本古代氏族研究データベース」にあるデータ等を参考にしました。)などを紐解いていくと、新治国造の祖の名前が比奈良珠命(ひならすのみこと)であったこと、比奈良珠命は成務天皇の時代(志賀高穴穂朝御世)に生存していたことなどを確認することができ、稲田神社は、成務天皇元年から同60年の間(131年から192年の間)に創建されたものと推測することができます。御祭神は、奇稲田姫之命(くしなだひめのみこと)。このように由緒正しき神社とも言える稲田神社ですが、7つの大社の中で最もひっそりとたたずむ神社となっています。
写真-16 稲田神社
(現・茨城県笠間市稲田地内)
写真-17 稲田神社
(現・茨城県笠間市稲田地内)
(4)吉田神社(よしだじんじゃ)
吉田神社は常陸国第三宮であり、常陸国の那賀郡(なかのこおり(創建当時)。現在の水戸市。)に所在する神社です。吉田神社の公式ホームページには、「創建の年紀は詳らかではないが、当社の古文書によれば正安4年(西暦1301年)は、御創建以来800余年に当たるとあるので、これより推定すると、顕宗天皇(485)と仁賢天皇(498)の御代の間に遡るもののようである。」との記載があり、顕宗天皇元年から仁賢天皇11年の間(485年から498年の間)に創建されたものと推測することができます。御祭神は第12代景行天皇(けいこうてんのう)の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)。吉田神社の公式ホームページには、「尊が東夷平定の帰途、常陸を過ぎて兵をこの地朝日山に留めて憩わせた故事を以って、この地に神社を創建し尊を奉祀した。」との由緒が記載されています。
写真-18 吉田神社
(現・茨城県水戸市宮内町地内 )
写真-19 吉田神社
(現・茨城県水戸市宮内町地内)
(5)静神社(しずじんじゃ)
静神社は常陸国二ノ宮であり、常陸国の久慈郡(くじのこおり(創建当時)。現在の那珂市。)に所在する神社です。静神社の公式ホームページには、「創建は不明であるが国史上、850年以前(文徳実録「文徳帝嘉祥3年(850年)9月使を遣わして静神社に奉幣せしむ」とある)と推定され」とあり、嘉祥3年(850年)に創建されたものと推測することができます。御祭神は4柱で、主祭神が建葉槌命(たけはづちのみこと)、相殿神が手力雄命(たぢからをのみこと)、高皇産霊命(たかみむすびのみこと)、思兼命(おもいかねのみこと)。静神社の公式ホームページには、「静神社は、かって、東国の三守護神として鹿島神宮、香取神宮、静神社として崇拝されてきました。」との記載を確認することができます。
写真-20 静神社
(現・茨城県那珂市静地内)
写真-21 静神社
(現・茨城県那珂市静地内)
(6)大洗礒前薬師菩薩明神社(おおあらいいそさきやくしぼさつみょうじんじゃ)
大洗礒前薬師菩薩明神社(現在の大洗磯前神社)は、常陸国の鹿島郡(かしまのこおり(創建当時)。現在の東茨城郡大洗町。)に所在する神社です。大洗磯前神社の公式ホームページには、「平安時代の書物である『日本文徳天皇実録 にほんもんとくてんのうじつろく』によると、文徳天皇の斉衡3年(856)12月29日、現在の神磯に御祭神の大己貴命・少彦名命が御降臨になり、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造りおへて、去りて東海に往きけり。今民を済すくわんが為、亦帰またかえり来たれり」と仰ったことから、当社が創建された」とあり、斉衡3年(856年)に創建されたものと推測することができます。御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の2柱。後述のとおり、酒烈礒前薬師菩薩神社(現在の酒列磯前神社)とは兄弟神社の関係にあると言われています。
写真-22 大洗礒前神社
(現・茨城県東茨城郡大洗町磯浜町地内 )
写真-23 大洗礒前神社
(現・茨城県東茨城郡大洗町磯浜町地内)
(7)酒烈礒前薬師菩薩神社(さかつらいそさきやくしぼさつじんじゃ)
酒烈礒前薬師菩薩神社(現在の酒烈磯前神社)は、常陸国の那賀郡(なかのこおり(創建当時)。現在のひたちなか市。)に所在する神社です。酒烈磯前神社の公式ホームページには、その由来や御祭神に関して、前述の大洗磯前神社と同じ内容が記載されているほか、「酒列磯前神社と大洗磯前神社は二社で一つの兄弟神社となっております」とも記載されています。ゆえに、その創建は、斉衡3年(856年)、御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の2柱になります。那珂川(なかがわ)をはさんで、太平洋〈鹿島灘・かしまなだ〉沿いに、10キロ程度の間隔をもって位置しているロケーションも、兄弟神社として呼ぶにふさわしい要素になっています。
写真-24 酒列礒前神社
(現・茨城県ひたちなか市磯崎町地内)
写真-25 酒列礒前神社
(現・茨城県ひたちなか市磯崎町地内)