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​常陸国の歴史(少し詳しい解説3)

 このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。

最終更新 令和6年(2024​年)5月18日

(4)佐竹氏による常陸国統一 1/3

   (鎌倉時代~戦国時代

   【西暦1185年~1600年頃まで】

(その1)​佐竹氏不遇の時代

 図-7は、平安時代末期における常陸国の郡を示す図となっています。このうち「奥七郡(おくしちぐん)」と呼ばれる領域《 [1] 多可郡(たかぐん)、[2] 佐都東郡(さととうぐん)、[3] 佐都西郡(さとさいぐん)、[4] 那珂東郡(なかとうぐん)、[5] 那珂西郡(なかさいぐん)、[6] 久慈東郡(くじとうぐん)、[7] 久慈西郡(くじさいぐん) ⦆は、のちに常陸国を統一した佐竹(さたけ)氏の所領となっていました。しかし、治承4年(1180年)の金砂城の戦い(かなさじょうのたたかい)において、源頼朝(みなもとのよりとも)に敗れた佐竹氏は、一族の滅亡こそは免れたものの、多くの所領を奪われ、しばらくの間、不遇の時代を過ごすこととなってしまいます。

 一方、佐竹氏に勝利した頼朝は、文治元年(1185年)に、相模国(さがみのくに)の鎌倉(かまくら。現在の神奈川県鎌倉市。)において、鎌倉幕府を開きます。しかし、わずか14年後の建久10年(1199年)、頼朝は落馬により急死してしまいます。(暗殺説もあるようです。)これを受け、鎌倉殿(かまくらどの。鎌倉幕府の棟梁のこと。必ずしも征夷大将軍の地位とは一致しません。)を継いだのは、頼朝の長男であった頼家(よりいえ)でした。しかし、頼家が、まだ18歳という年齢であったことなどの理由から「十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)」と呼ばれる集団指導体制が敷かれることとなり、その結果、比企(ひき)氏北条(ほうじょう)氏の対立を生むこととなりました。

 建仁3年(1203年)のこと、母方の北条時政(ほうじょうときまさ。頼家の母であった北条政子(ほうじょうまさこ)の父。)らは、頼家を幽閉、暗殺すると、頼家の弟の実朝(さねとも)に鎌倉殿を継がせました。さらに、比企(ひき)氏を滅ぼすと、幕府内における北条氏の影響力が高まることとなりました。健保7年(1219年)に実朝が暗殺されると、北条氏は、藤原(ふじわら)氏嫡流の九条(くじょう)家から藤原頼経(ふじわらのよりつね)を将軍職として迎え入れると、北条氏は、鎌倉殿から源頼朝の直系を完全に排除してしまいました。このように鎌倉幕府における影響力を確実なものとした北条氏は、次第に、常陸国での影響力も高めていきました。

平安時代末期の常陸国の郡
平安時代末期の常陸国の郡

図-7 平安時代末期の常陸国の郡(茨城県史を参考に作成)

 平安時代末期の常陸国に影響力を持っていた多気(たけ)氏を失脚させ、常陸国南部に多くの所領を得ていた八田知家(はったともいえ)は、十三人の合議制の一員でもありました。承久3年(1221年)に起こった「承久の乱(じょうきゅうのらん)」の際、留守居として鎌倉に残った知家でしたが、次子の知尚(ともひさ)が、北条氏の討伐を命じた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)方に付いてしまいました。同族内に矛盾を抱えてしまった八田氏は、承久の乱が北条氏の勝利に終わると、知尚の叛逆を問われることとなり、その結果、八田氏の所領であった信太荘(しだのしょう)を北条氏に奪われるといった事態となりました。さらに、北条氏は、中郡荘(ちゅうぐんのしょう)、下妻荘(しもつまのしょう)、田中荘(たなかのしょう)といった地域を次々に手中に収め、依然、佐竹氏の影響力が強かった奥七郡にも所領を得るなど、常陸国における影響力を高めていきました。そして、北条氏が、香取海(かとりのうみ。現在の霞ケ浦のこと。)南端に位置する潮来(いたこ)郷を押さえると、常陸国の水運機能までもが、北条氏の手中に収まることとなりました。

 文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)のこと、2度にわたる日本侵略(元寇。げんこう。モンゴル帝国との戦い。)を防いだ鎌倉幕府でしたが、戦いに参加した御家人(ごけにん。鎌倉殿と主従関係を結んだ武家のこと。)に対して満足のいく報酬を与えることができませんでした。さらに、元寇後に発した徳政令(とくせいれい)によって一部の御家人に不満を与えてしまったり、皇位継承に介入して後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の不満を募らせてしまったりと、鎌倉幕府は、倒幕運動を招く行動を続けてしまいました。そして、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇によって「元弘の乱(げんこうのらん)」が引き起こされると、約150年続いた鎌倉幕府は崩壊し、北条氏のほとんどは滅亡してしまいました。なお、この動乱においては、常陸国から、吉田(よしだ)氏の流れをくむ石川(いしかわ)氏と多気氏の流れを汲む真壁(まかべ)氏が鎌倉幕府方として関わっていた一方で、かつて、十三人の合議制の一員だった八田氏は、鎌倉幕府方から離反していたものと推察されています。

武熊城址

写真-26 武熊城址(石川氏の居城)
(現・竹隈市民センター 茨城県水戸市柳町地内)

真壁城址

写真-27 真壁城址(真壁氏の居城)
(現・茨城県桜川市真壁町古城地内)

(その2)瓜連城の戦い・常陸合戦

 元弘3年(1333年)に起こった元弘の乱は、後醍醐天皇の単独行動で成し遂げられたわけではなく、実際には、下野国(しもつけのくに)の足利荘(あしかがのしょう。現在の栃木県足利市。)発祥の武家であった足利尊氏(あしかがたかうじ。足利氏の第8代当主であり、のちに新たな武家政権を開くことになります。)や上野国(こうずけのくに)の新田荘(にったのしょう。現在の群馬県太田市周辺。)発祥の武家であった新田義貞(にったよしさだ。新田氏の第9代当主。)らの功績によるものでした。鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇による政治「建武の新政(けんむのしんせい)」が始まると、少しの間、武士による政治から、天皇自らが行う政治(親政。しんせい。)に戻る形となりました。しかし、建武の新政が安定することはありませんでした。建武2年(1335年)のこと、少し前まで政治の中心地であった鎌倉において、北条時行(ほうじょうときゆき)らが「中先代の乱(なかせんだいのらん)」を引き起こすと、後醍醐天皇の勅許を得ずに出陣した足利尊氏と、帰洛(きらく)するよう命じたものの従わなかった尊氏の行動を謀反(むほん)とみなした後醍醐天皇との間に対立が生まれることとなり、後醍醐天皇は、新田義貞を総大将とする追討軍を鎌倉に派遣しました。こうして、後醍醐天皇と足利尊氏の争いが始まりました。

 建武の新政が始まったばかりの頃、那珂東郡の瓜連(うりづら。現在の茨城県那珂市瓜連。)の地は、後醍醐天皇方(のちの南朝方)の楠木正成(くすのきまさしげ)の領地になっていました。当時の瓜連は、常陸国と陸奥国(むつのくに。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県など。)との交流における要衝の地でもあり、当地を奪った後醍醐天皇方にとっては、死守すべき土地となっていました。逆に、当地を奪われた、足利尊氏方(のちの北朝方)に立った佐竹氏にとっては、目の前の脅威であり、その奪還は悲願となっていました。そして、建武2年(1335年)のこと、佐竹氏第8代当主の佐竹貞義(さたけさだよし)は、陸奥国(むつのくに)の岩城郡(いわきぐん。現在の福島県いわき市。)の伊賀盛光(いがもりみつ)に対して、瓜連の奪還を命じ、正成の親族・楠木正家(くすのきまさいえ)が築城した瓜連城に攻め入りました。この戦いを「瓜連城の戦い(うりづらじょうのたたかい)」と言い、その序盤は、貞義の子・義冬(よしふゆ)が討死するなど、佐竹氏にとって不利な状態が続きましたが、数ヶ月間の膠着状態を経たのち、瓜連城の北側に位置する武生城(たきゅうじょう。茨城県常陸太田市下高倉町にあった城。)から再度攻め込むと、正家の応援に駆けつけていた後醍醐天皇方の小田治久(おだはるひさ。八田知家を始祖とする小田氏一族。)らを撃退することに成功し、佐竹氏は、瓜連の奪還に成功しました。

瓜連城址
瓜連城址

写真-28 瓜連城址
(現・常福寺 茨城県那珂市瓜連地内)

武生城址

写真-29 武生城址(竜神大吊橋の左奥)
(現・茨城県常陸太田市下高倉町地内)

 瓜連城の戦いが続くさなか、当の足利尊氏は、後醍醐天皇方の北畠顕家(きたばたけあきいえ)の前に九州にまで敗走させられる展開となっていました。しかし、足利尊氏方が攻勢に転じると、湊川の戦い(みなとがわのたたかい。現在の兵庫県神戸市における戦い。)において、後醍醐天皇方の楠木正成を自害に追い込みました。そして、尊氏は、持明院統(じみょういんとう)の光厳上皇(こうごんじょうこう)を奉じて京(きょう)に入り、光明天皇(こうみょうてんのう)と和睦する形で「建武式目(けんむしきもく)」を制定しました。建武3年(1336年)に起こったこの出来事をもって、室町時代、そして、新たな武家政権(足利尊氏が新たに開いた武家政権は、江戸時代中期以降、「室町幕府(むろまちばくふ)」と呼ばれるようになりました。以下、足利尊氏が開いた武家政権を「室町幕府」と言うこととします。)が始まったとされ、尊氏は、暦応元年(1338年)に征夷大将軍(室町幕府・初代将軍)になっています。一方、後醍醐天皇は、大和国(やまとのくに)の吉野(よしの。現在の奈良県南部。)に逃げる結果となりました。そして、時代は南北朝時代に突入します。

 足利尊氏を敗走させた功績により、鎮守府大将軍(ちんじゅふだいしょうぐん。武門(武家)の最高栄誉職。)になっていた南朝方(後醍醐天皇方)の北畠顕家は、常陸国と下野国を管轄下に置いた陸奥国の大介(おおすけ。陸奥国の国司。)を兼務することとなりました。陸奥国に戻っていた顕家でしたが、尊氏に奪われた京を奪還するため、暦応元年(1338年)に、再び京に向かって動き出しました。しかし、顕家は、和泉国(いずみのくに)の石津浜(いしつはま。現在の大阪府堺市。)において、尊氏の側近の高師直(こうのもろなお)と対峙することとなり、その結果、命を落としてしまいました。この顕家の死は、主だった武将を失っていた南朝方にとって大きな痛手となりました。しかし、顕家の父の北畠房親(きたばたけふさちか)は諦めませんでした。そして、房親は、その体制を立て直すため、船団を組んで陸奥国に向かうこととしました。しかし、その船団は、暴風雨に遭遇して散り散りとなり、目的地である陸奥国にたどり着くことができませんでした。そのような中、親房は、常陸国に漂着することができました。そして、この漂着が、常陸国における戦いを生みました。

神宮寺城跡

写真-30 神宮寺跡
(現・茨城県稲敷市神宮寺地内)

阿波崎城址

写真-31 阿波崎城址
(現・茨城県稲敷市阿波崎地内)

 暦応元年(1338年)、房親は、東条荘(とうじょうのしょう。現在の茨城県稲敷市。)に漂着し、近くの神宮寺城(じんぐうじじょう。現在の茨城県稲敷市神宮寺にあった城。)に入ることとなりました。当初、陸奥国を目指していた房親でしたが、陸奥国の管轄下に置かれた常陸国に漂着できたことは、不幸中の幸いでした。しかし、房親が神宮寺城に入ったという情報は、すぐに北朝方の佐竹義篤(さたけよしあつ)の耳にも入りました。佐竹氏第9代当主であった義篤は、宿老(しゅくろう)の小野崎(おのざき)氏、常陸平氏(ひたちへいし)の庶流でありながら北朝方に付いていた鹿島(かしま)氏らに命じる形で、すぐさま、神宮寺城、阿波崎城(あばさきじょう。現在の茨城県稲敷市阿波崎にあった城。)を落とし、房親らを小田氏の居城である小田城(おだじょう。現在の茨城県つくば市にあった城。)に追い込みました。

 南北朝時代初期の常陸国は、南朝方(後醍醐天皇方)と北朝方(足利尊氏方)が混在する土地となっていました。暦応2年(1339年)のこと、尊氏は、常陸国に高師冬(こうのもろふゆ。高師直の従兄弟。)を派遣し、南朝方を討伐することとしました。のちに「常陸合戦(ひたちかっせん)」と呼ばれるこの戦いは、当初こそは、尊氏とその弟の直義(なおよし)との対立を原因として、常陸国及び周辺諸国の武家の協力を受けることができませんでしたが、南朝方の諸士の寝返りなども手伝って、南朝方の房親を関城(せきじょう。現在の茨城県筑西市にあった城。)、大宝城(だいほうじょう、現在の茨城県下妻市にあった城。)に追い込み、最終的には、北朝方の勝利に至りました。(この戦いを「関城・大宝城の戦い(せきじょう・だいほうじょうのたたかい)」と言います。)なお、戦いに敗れた親房は、大和国の吉野に逃げのび、その後裔は、長く伊勢国(いせのくに。現在の三重県北中部など。)を治めることとなりました。

関城跡
関城跡

写真-32 関城跡
(現・茨城県筑西市関舘地内)

大宝城址
大宝城跡

写真-33 大宝城跡
(現・茨城県下妻市大宝地内)

 南朝方であった小田治久は、自らの居城であった小田城において、高師冬との戦いに敗れ、その結果、北朝方に寝返ることになりました。治久は、関城・大宝城の戦いにおいて、過去を払拭するかのような働きをしたとも言われています。文和元年(1353年)、治久の後を継いだのは孝朝(たかとも)でした。治久の実子ではなかったという説がある孝朝ですが、小山若犬丸(おやまわかいぬまる)を秘匿している罪で謀反に問われることになってしまいます。下野国の武家であった小山氏は、北朝方でありながら、南朝方に心を寄せる場合があったと言われており、常に不安定な立場にありました。康暦2年(1380年)、小山義政(おやまよしまさ)と宇都宮基綱(うつのみやもとつな)が対立すると、小山氏は、鎌倉公方(かまくらくぼう。室町幕府が設置した東国を統治するための機関・鎌倉府(かまくらふ)の長官のこと。)であった足利氏満(あしかがうじみつ)から追われることとなり、さらに、この時、義政の嫡男であった若犬丸を秘匿した孝朝も、鎌倉公方の標的となってしまいました。その結果、孝朝らは鎌倉府に拘束され、小田城に討伐軍が送り込まれるという事態となりました。

 

 小田城に討伐軍を送り込まれた小田氏(この時、孝朝は鎌倉府において拘束中。)一族は、同族である宍戸(ししど)氏を頼って、その本拠地である難台山城(なんだいやまじょう。現在の茨城県笠間市上郷にあった山城。)に籠城することとなりました。補給路を断たれた末、嘉慶2年(1388年)に、難台山城が落とされると、この戦いに負けた小田氏(鎌倉府から解放された小田孝朝)の所領は大幅に削減されることとなり、この戦いの原因となった若犬丸は陸奥国の会津(あいづ。現在の福島県会津若松市。)で自害、小山氏が滅亡するといった結果を招くこととなりました。ちなみに、若犬丸の自害と小山氏の滅亡を含む下野国で起こった戦いを「小山氏の乱(おやましのらん)」、常陸国で起こった戦いを「小田氏の乱(おだしのらん)」と言います。

小田城址

写真-34 小田城址
(現・茨城県つくば市小田地内)

難台山

写真-35 難台山城
(現・茨城県笠間市上郷地内)

 確かな記録がないものの、南北朝時代に入る少し前、のちに「佐竹氏の乱(さたけしのらん)」で、佐竹氏宗家と対立することとなる山入(やまいり)氏の祖、佐竹師義(さたけもろよし)が生を受けています。師義については、先述のとおり、佐竹氏の第8代当主であった貞義の子であったということ、第9代当主であった義篤の弟であったということ以外、よく分からないとも言われていますが、佐竹氏宗家(これ以降、佐竹氏の乱が終結するまで佐竹氏、特に、義篤の流れをくむ佐竹氏を「佐竹氏宗家」と言います。)の居城・太田城の北西約8キロの位置に、自ら(師義)の居城となる山入城(やまいりじょう。現在の茨城県常陸太田市国安町にあった城。)を築城したと言われています。いつからか山入氏と呼ばれるようになった師義の子孫は、約100年間にわたって、佐竹氏宗家との抗争を繰り広げることとなります。

 小田氏の乱(難台山城での戦い)においては、のちに馬場城(ばばじょう)を攻め落とし、その城主となった常陸江戸(ひたち・えど)氏の存在があったと言われています。そもそも、常陸江戸氏は、平安時代中期の貴族であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を起源とする那珂(なか)氏の流れをくみ、その居城は那珂郡江戸郷(なかぐん・えどごう。現在の茨城県那珂市下江戸。)にあったとされています。難台山城での戦いにおいて戦死した江戸通高(えどみちたか)の子、通景(みちかげ)は、鎌倉公方の足利氏満から河和田城(かわわだじょう。現在の茨城県水戸市河和田町にあった城。)を与えられたと言われており、その約30年後にあたる応永29年(1422年)に、 その後裔が、馬場城を攻め落としたと言われています。常陸江戸氏は、佐竹氏によって滅ばされるまで、馬場城の城主として、その影響力を保持し続けることとなります。

山入城跡
山入城跡_案内

写真-36 山入城跡
(現・茨城県常陸太田市国安町地内)

河和田城跡

写真-37 河和田城跡
(現・報佛寺 茨城県水戸市河和田町地内)

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