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常陸国の歴史(少し詳しい解説5)
このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。
最終更新 令和6年(2024年)5月18日
(4)佐竹氏による常陸国統一 2/3
(その3)上杉禅秀の乱
建武3年(1336年)のこと、足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武式目(けんむしきもく)を制定し、室町時代が始まりました。そして、貞和5年(1349年)のこと、室町幕府(北朝)は、東国10か国を監視するため、鎌倉府(かまくらふ)を設置し、その役職として、鎌倉公方(かまくらくぼう)と関東管領(かんとうかんれい)を置きました。やがて、それらの役職は、世襲によって受け継がれるしきたりとなり、鎌倉府の長官としての役割があった鎌倉公方は、足利尊氏の四男であった基氏(もとうじ)の子孫が、鎌倉公方を補佐する役割があった関東管領は、藤原北家勧修寺流(ふじわらほっけかじゅうじりゅう)の流れをくむ上杉(うえすぎ)氏の子孫が世襲していくこととなりました。さらに、関東管領の上杉氏にあっては、扇谷(おうぎがやつ)・宅間(たくま)・犬懸(いぬがけ)・山内(やまのうち)の4つの家系に分かれることとなり、それらはやがて対立を生むこととなっていきます。なお、鎌倉の地には、佐竹(さたけ)氏の第11代当主であった義盛(よしもり)ゆかりの大寶寺(だいほうじ)があり、かつて関東八屋形(かんとうはちやかた。関東管領・上杉氏の提案によって定められた坂東(ばんどう)の有力な8大名のことを言います。)の一人として鎌倉府に関わりがあったことを考察することができます。
一方、京の室町では、応安2年(1369年)に、北朝の足利義満(あしかがよしみつ)が将軍職(征夷大将軍)を継ぐこととなり、室町幕府の第3代将軍となりました。さらに、明徳3年(1392年)には、南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)と「明徳の和約(めいとくのわやく)」を結ぶに至り、ここに南北朝合一(なんぼくちょうごういつ)が達せられることとなります。こうして、58年にわたった南北朝時代が終焉を迎えることとなりました。なお、南北朝合一を実現した義満については、隣国・明(みん。現在の中華人民共和国の位置にあった国。)との勘合貿易(かんごうぼうえき)に取り組んだこと、北山文化(きたやまぶんか)を開花させたこと、鹿苑寺(ろくおんじ。金閣寺(きんかくじ)の名前で有名な臨済宗の寺院。)を創建したことでも、よく知られており、第8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が創建した慈照寺(じしょうじ。銀閣寺(ぎんかくじ)の名前で有名な臨済宗の寺院。)や東山文化(ひがしやまぶんか)と対比されることが少なくありません。
写真-56 足利公方邸旧蹟
(現・神奈川県鎌倉市浄明寺地内)
写真-57 大寶寺(佐竹氏ゆかりの寺院)
(現・神奈川県鎌倉市大町地内)
応永23年(1416年)に起こった「上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)」は、常陸国の武家を巻き込む戦いとなりました。この戦いの直接的な原因は、鎌倉公方であった足利持氏(あしかがもちうじ)が、関東管領であった犬懸山内家の上杉氏憲(うえすぎうじのり)を更迭(正確には、上杉氏憲が申し出た関東管領の辞任を、鎌倉公方である足利持氏があっさり容認)して、山内上杉家の上杉憲基(うえすぎのりもと)を関東管領に命じたことにありますが、そのバックグラウンドには、犬懸山内家と山内上杉家の激しい対立がありました。このことに不満を持った上杉禅秀(氏憲から改名。)は、常陸国の山入与義(やまいりともよし)、大掾満幹(だいじょうみつもと)、小栗満重(おぐりみつしげ)、小田持家(おだもちいえ)、真壁秀幹(まかべひでもと)らを率いて、足利持氏に戦いを挑みました。ちなみに、足利持氏側には、室町幕府のほか、常陸国から佐竹義人(さたけよしひと)、鹿島憲幹(かしまのりもと)らが参戦していました。この戦いの結果としては、足利持氏(鎌倉公方)側の勝利に終わりました。
なお、上杉禅秀の乱に参戦した大掾満幹にあっては、馬場城(水戸城)を築城した馬場資幹(ばばすけもと。大掾資幹(だいじょうすけもと)、吉田資幹(よしだすけもと)とも呼ばれています。)の子孫であり、馬場城の城主でもありました。上杉禅秀の乱に敗れ、馬場城に戻った満幹でしたが、河和田城を居城としていた江戸通房(えどみちふさ)に馬場城を奪われ、さらには、相模国(さがみのくに)の鎌倉雪ノ下(かまくらゆきのした。現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。)において殺されてしまうといった不遇に遭い、その生涯を終えることとなります。馬場城を奪われる直前から鎌倉に至るまでの間、満幹は府中(ふちゅう。現在の茨城県石岡市。)に留まっていたようであり、通房に奪われた馬場城(水戸城)は、再び大掾氏の元に戻ることはありませんでした。馬場城(水戸城)は、応永26年(1419年)から、佐竹氏に奪われる天正18年(1590年)までの間、約170年間にわたって、常陸江戸氏の居城となっていきます。
写真-58 馬場城跡(水戸城跡)
(現・茨城県水戸市三の丸地内)
写真-59 府中城跡
(現・茨城県石岡市総社地内)
応永29年(1422年)のこと、常陸国の小栗御厨(おぐりみくりや)の武家であった小栗満重が国境をまたいで反乱を起こしました。のちに、「小栗満重の乱(おぐりみつしげのらん)」と呼ばれるこの反乱は、上杉禅秀の乱において禅秀方に付き、敗者となり、鎌倉公方に所領の一部を奪われた満重が、これを不服として、下野国(しもつけのくに)の宇都宮(うつのみや)氏や常陸国の真壁(まかべ)氏らと共謀し、下総国(しもうさのくに)の結城城(ゆうきじょう)を襲ったという反乱です。鎌倉公方の足利持氏率いる軍勢の前に、満重は、小栗城(おぐりじょう)で自刃し、反乱が収まったと言われています。(満重の自刃を否定する「小栗判官伝説(おぐりはんがんでんせつ)」も存在します。)上杉禅秀の乱に始まった鎌倉府に関わる一連の戦乱は、後述する「結城合戦(ゆうきかっせん)」まで断続的に続くことになります。
鎌倉公方の足利持氏は、後継ぎがいなかった室町幕府の第4代将軍であった足利義持(あしかがよしもち)の亡き後、第6代将軍に就くことができるものと考えていました。(第5代将軍の足利義量(あしかがよしかず)は、19歳の若さで、第4代将軍・足利義持よりも先に亡くなっていました。)しかし、実際に、第6代将軍の座に就いた(第6代将軍をくじ引きによって決定された)のは、足利義教(あしかがよしのり)でした。これを機に、持氏は、室町幕府に反発するようになりました。
一方、関東管領の上杉憲基を継いだのは、山内上杉家の上杉憲実(うえすぎのりざね)でした。憲実は、幕府への不満から上洛しようとする持氏を諫めるなど、一貫して鎌倉府のために努力を続けていましたが、次第に、持氏との間に確執が生まれていきました。そして、憲実が室町幕府に救援を求めると、二人の確執は、鎌倉公方(鎌倉公方軍)と室町幕府(幕府軍)との戦いに発展し、持氏が自害するという結果(室町幕府(幕府軍)が勝利するという結果)となりました。永享11年(1439年)に起こったこの戦いを「永享の乱(えいきょうのらん)」と言い、以後、約10年間にわたって、鎌倉公方に空白の時が流れることとなります。
鎌倉の永安寺(えいあんじ)において自害した持氏の遺子、春王丸(はるおうまる)と安王丸(やすおうまる)は、鎌倉を脱して、下野国の日光山(にっこうさん)に逃れたと言われています。茨城県史を確認してみると「永享十二年(一四四〇)三月三日、安王丸、春王丸は持氏の残党に擁せられて、常陸中郡荘木所城(岩瀬町)に挙兵した(中略)やがて木所城から小栗、伊佐(下館市)を経て、二十一日、結城氏朝に迎えられて下総結城城に入った。」との記載があり、持氏の遺子、春王丸と安王丸は、持氏の残党に擁せられて挙兵したのちに、結城城に入ったものと推察できます。(結城市史(1980年発行)には「一時日光山にひそんでいた持氏の遺子春王・安王が、一四四〇年(永享十二)に入って、結城からはさして遠くない下野国芳賀郡茂木で、持氏余党に擁立されて挙兵したのがきっかけであった。」との記載があります。)
(注記)「常陸中郡荘木所城(岩瀬町)」とは、「ひたちちゅうぐんのしょう・きどころじょう(いわせまち)」と読み、現在の茨城県桜川市上城にあった城のことを言います。又、「伊佐(下館市)」とは、「いさ(しもだてし)」と読み、現在の茨城県筑西市中舘のことを言います。さらに、「下野国芳賀郡茂木」とは、「しもつけのくにはがぐんもてぎ」と読み、現在の栃木県芳賀郡茂木町のことを言います。
写真-60 小栗城跡
(現・茨城県筑西市小栗地内)

写真-61 木所城跡
(現・爪黒神社 茨城県桜川市上城地内)
「万人恐怖(ばんにんきょうふ)」とも言われる恐怖政治を敷いていた室町幕府第6代将軍・足利義教は、関東管領を辞して隠遁(いんとん)していた上杉憲実に対し、持氏の遺子、春王丸・安王丸を匿う結城氏第11代当主の結城氏朝(ゆうきうじとも)らの討伐を命じました。憲実は、やむなく隠遁を取りやめ、関東管領の上杉清方(うえすぎきよまさ)らとともに、幕府軍として、結城城に攻め入ることとなりました。他方、春王丸・安王丸を匿った氏朝は、籠城戦(ろうじょうせん)に持ち込みました。しかし、次第に、幕府軍側が優勢となり、結城城は落城、氏朝は討死(それとも自害)、春王丸と安王丸は京都に移送される途中(美濃国・みののくに。現在の岐阜県。)で殺害されるという結果となりました。永享12年(1440年)、約1年間にわたって続いたこの戦いを「結城合戦」と言い、結城氏と共に籠城戦に臨んだ常陸国の水谷(みずのや)氏も討死したと言われています。
話は少しだけ遡ります。佐竹氏宗家の第11代当主であった佐竹義盛(さたけよしもり)にあっては、男子に恵まれませんでした。そこで、関東管領の上杉憲定(うえすぎのりさだ)の次男を養子として迎え入れ、第12代当主の佐竹義人(さたけよしひと。上杉義憲(うえすぎよしのり)から改名されました。)として継がせることとなりました。義人の実兄であった上杉憲基(うえすぎのりもと)は、上杉禅秀の乱の時の関東管領であり、憲基の養子が上杉憲実という血縁関係となっています。上杉義憲を佐竹氏宗家の養子として迎え入れたことによって、佐竹氏宗家と佐竹氏庶流の山入氏との対立を生み、約100年にわたる佐竹氏の乱につながっていきます。

写真-62 結城城跡
(現・茨城県結城市結城地内)
写真-63 結城城跡
(現・茨城県結城市結城地内)
(その5)嘉吉の乱・享徳の乱
結城合戦において、佐竹氏は、幕府軍(結城氏討伐軍)に属していましたが、合戦の終了後、合戦で敗れた結城氏の残党を受け入れることとなりました。このことが、第6代将軍・足利義教に伝わると、永享13年(1441年)の5月、佐竹義人に対する討伐命令が発せられてしまいました。しかし、翌6月、将軍の義教を狙ったクーデター「嘉吉の乱(かきつのらん)」が発生し、義教は、首謀者・赤松満祐(あかまつみつすけ)によって殺害されてしまいました。このクーデターによって、義人は、運良く難を逃れることができました。
文安4年(1447年)、鎌倉府に再び鎌倉公方が置かれることとなると、持氏の遺子であった足利成氏(あしかがしげうじ)がその地位に就きました。他方、関東管領は、上杉憲実から上杉憲忠(うえすぎのりただ)に引き継がれました。しかし、鎌倉公方となった成氏は、父・持氏を死に追いやった上杉憲実の嫡男であることを理由に、憲忠を感情的に許すことができませんでした。そして、その感情は対立を生み、新たな内乱を生むこととなります。
続いて、宝徳4年(1450年)、関東管領となった上杉憲忠(山内上杉氏)の家宰(かさい)・長尾景仲(ながおかげなか)や、扇谷上杉氏の家宰・太田資清(おおたすけきよ)らは、鎌倉公方の足利成氏を襲撃し、のちに「江の島合戦(えのしまかっせん)」と呼ばれる内乱が引き起こされました。(ちなみに、家宰とは、家の仕事を代行する人のことを言います。)この合戦の結果としては、両者の和議となりましたが、鎌倉公方と関東管領の対立は一層激しさを増すこととなり、やがて、両者の対立は、享徳3年(1455年)の「享徳の乱(きょうとくのらん)」に至ってしまいます。こうして時代は、戦国時代に突入していきます。
享徳3年(1455年)のこと、鎌倉公方の足利成氏は、側近の結城成朝(ゆうきしげとも。下総国・結城氏第13代当主。)らを使い、かねてより対立していた関東管領の上杉憲忠を殺害してしまいました。急遽、憲忠の後を継いだ上杉房顕(うえすぎふさあき。上杉憲忠の弟。)は、上野国(こうずけのくに)の平井城(ひらいじょう。現在の群馬県藤岡市にあった城。)において、上杉房定(うえすぎふささだ。房顕の従弟。)と合流すると、武蔵国(むさしのくに)の府中(ふちゅう。現在の東京都府中市。)において、挙兵することとなりました。しかし、挙兵をしたものの、結城氏率いる成氏軍を前に、房顕は自害、景仲は常陸国の小栗城に落ちのびるという結果に終わりました。
かろうじて小栗城に逃れた景仲でしたが、成氏軍の追跡によって小栗城は落城してしまいました。(最終的に景仲は上野国に逃れることとなります。)しかし、一方の成氏も、完全な勝利とはなりませんでした。成氏は、小栗城を落とした後も、各地の上杉方勢力を討伐するため、転戦を続けていましたが、その隙を狙っていた駿河国(するがのくに。現在の静岡県中部。)の今川範忠(いまがわのりただ。今川氏第5代当主。)に鎌倉を占拠されてしまい、鎌倉に戻ることができなくなってしまいました。鎌倉に戻ることを諦めた成氏は、下総国の古河(こが)に居城(古河公方館、古河城)を構えることとなり、以後、鎌倉公方は、古河公方(こがくぼう)となって、以後、120年以上にわたり、古河の地に留まることとなります。
このように、坂東各地を巻き込んでいった享徳の乱は、文明14年(1483年)に、室町幕府と成氏との間に和睦が成立するまで、小規模な争いが断続的に続くこととなります。他方、京においても、応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)にかけて「応仁の乱(おうにんのらん)」が発生します。応仁の乱とは、室町幕府の第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の後継者をめぐる争いをきっかけとして、京の街に壊滅的なダメージを与えるほどの大規模な争いに発展した内乱であり、近年では、享徳の乱と応仁の乱をもって、戦国時代が始まったものと解釈されています。(戦国時代の始まりと終わりについては諸説あり、地域によって解釈が異なります。)
写真-64 古河公方館址
(現・茨城県古河市 鴻巣地内)
写真-65 古河城跡
(現・茨城県古河市中央町地内)