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​常陸国の歴史(少し詳しい解説6)

 このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。

 

最終更新 令和6年(2024​年)5月18日

 

(4)佐竹氏による常陸国統一 3/3

(その6)佐竹氏の乱

 

 佐竹(さたけ)氏宗家と佐竹氏庶流の山入(やまいり)氏らによって繰り広げられた「佐竹氏の乱(さたけしのらん)」とは、応永14年(1407年)から正元年(1504年)までの約100年間にわたって続いた争いであり、「山入一揆(やまいりいっき)」又は「山入の乱(やまいりのらん)」とも呼ばれています。少し詳しい解説5でも触れたとおり、佐竹の乱は、佐竹氏宗家の第11代当主であった義盛(よしもり)に男子がいなかったこと、関東管領の上杉憲定(うえすぎのりさだ)の次男を第12代当主の義人(よしひと)として迎え入れたこと、この世継ぎについて佐竹氏庶流の山入氏らが異議を唱えたことなどを原因として、具体的には、山入氏らによる長倉城(ながくらじょう。現在の茨城県常陸大宮市長倉にあった城。)での籠城を皮切りとして、争いが始まったとされています。文明10年(1478年)の山入氏らによる久米城(くめじょう。現在の茨城県常陸太田市久米にあった城。)の攻略、延徳2年(1490年)の山入氏らによる太田城(おおたじょう。現在の茨城県常陸太田市中城町にあった佐竹氏宗家の居城。)の襲撃といった幾多の衝突を経ながら、概ね山入氏らが有利な展開で進んでいきましたが、孫根城(まごねじょう。現在の茨城県東茨城郡城里町孫根にあった城。)から金砂城(かなさじょう。現在の茨城県常陸太田市上宮河内町にあった城。)にまで追い込まれていた佐竹氏宗家の第15代当主であった佐竹義舜(さたけよしきよ)が、陸奥国(むつのくに)を拠点としていた岩城(いわき)氏らの支援を受けて攻勢に転じると、一気に形勢が逆転することとなり、義舜は、太田城(おおたじょう)の奪還に成功するとともに、山入氏を滅亡に追い込みました。こうして、佐竹氏宗家と約100年間にわたり争い続けた山入氏は、第8代当主であった氏義(うじよし)をもって、滅亡してしまいました。

長倉城跡
長倉城跡_案内

写真-66 長倉城跡
(現・茨城県常陸大宮市長倉地内)

孫根城跡

写真-68 孫根城跡
(現・茨城県東茨城郡城里町孫根地内)

久米城跡
久米城跡_案内

写真-67 久米城跡
(現・茨城県常陸太田市久米地内)

宇留野城跡

写真-69 宇留野城跡

(現・茨城県常陸大宮市宇留野地内)

(その7)​部垂の乱と南郷攻略

 前述のとおり、佐竹の乱を制した佐竹氏宗家でしたが、義舜の死後、またもや一族間の争いが発生してしまいます。新たな争いのきっかけは、宇留野城(うるのじょう。現在の茨城県常陸大宮市宇留野にあった城。)を拠点としていた宇留野義元(うるのよしもと。義舜の実子であり、後継ぎがいなかった宇留野氏の養子に入り、宇留野氏の当主となった。)が、宇留野城のほど近くにあった部垂城(へたれじょう。現在の茨城県常陸大宮市北町にあった城。)を乗っ取るといった暴挙から始まります。享禄2年(1529年)から天文9年(1540年)まで続いたこの争いは「部垂の乱(へたれのらん)」と呼ばれ、佐竹氏の第16代当主であった慶篤(よしあつ。義舜の実子。)が、慶篤の弟でもあった義元を自害に追い込むまで続くこととなります。

 天文14年(1545年)に慶篤が亡くなると、慶篤の嫡子であった義昭(よしあき)が第17代当主に就きました。そして、義昭は、自らの勢力拡大に向けて動き出します。義昭は、常陸江戸(ひたちえど)氏の第7代当主であった江戸忠道(えどただみち)、陸奥国を拠点としていた岩城氏の第15代当主であった岩城重隆(いわきしげたか)、下総国(しもうさのくに)を拠点としていた下総結城(しもうさゆうき)氏の第17代当主であった結城晴朝(ゆうきはるとも)との戦いに次々に勝利すると、陸奥国の南郷(なんごう。現在の福島県東白川郡など。)の攻略に向けて動き出すこととなります。そして、永禄8年(1565年)に義昭が亡くなり、義昭の嫡子であった義重(よししげ)が第18代当主に就くことになると、天正3年(1575年)に赤館(あかだて。現在の福島県東白川郡棚倉町棚倉にあった城。)を攻略し、赤館以南の陸奥国が佐竹氏の影響下に置かれることとなりました。

部垂城跡

写真-70 部垂城跡

(現・茨城県常陸大宮市北町地内)

赤館
赤館_石碑

写真-71 赤館
(現・福島県東白川郡棚倉町棚倉地内)

(その8)​後北条氏の台頭

 鎌倉公方(古河公方)であった足利(あしかが)氏と関東管領であった上杉(うえすぎ)氏との争いを軸として始まった東国(特に坂東)の戦国時代でしたが、後北条(ご・ほうじょう)氏の台頭によって、その情勢が大きく変化することになりました。後北条氏は、伊勢(いせ)氏の流れをくむ北条早雲(ほうじょうそううん)から始まった武家であったと言われていますが、桓武平氏(かんむへいし)の流れをくむ常陸平氏(ひたちへいし)の祖であった平国香(たいらのくにか)の流れもくんでいます。鎌倉時代に執権政治を確立した北条氏と区別するため、小田原北条(おだわら・ほうじょう)氏とも呼ばれていた後北条氏ですが、過去に紹介した平将門(たいらのまさかど)、平貞盛(たいらのさだもり)、吉田資幹(よしだすけもと)らと同じ流れをくむ武家の一人とも言えます。早雲の出生は不明な点が多いとも言われていますが、駿河国(するがのくに。現在の静岡県中部地方。)から伊豆国(いずのくに。現在の静岡県伊豆地方。)を経て、明応4年(1495年)に、相模国(さがみのくに。現在の神奈川県。)の小田原城(おだわらじょう)を奪取したと言われています。後北条氏の第2代当主であった治綱(うじつな)は、自らの居城を小田原城に定めると、以後、後北条氏は、第5代当主の氏直(うじなお)に至るまで、坂東の南側から、次々と、自らの勢力拡大に動いていきました。

 後北条氏の勢力拡大は、東国の武家に大きな影響を与えました。特に、自らの勢力範囲が小さい武家にとっては、後北条氏側に立つべきか、対立軸側(関東管領の上杉(うえすぎ)氏側、それとも、甲斐国(かいのくに。現在の山梨県。)の武田(たけだ)氏側)に立つべきか、決断を迫られることとなりました。後北条氏が常陸国の南部にまで勢力範囲を拡大する中、佐竹氏は、迫りくる後北条氏側に立とうとはせず、佐竹氏自身の勢力拡大に動くこととしました。このことは、結果的に、佐竹氏による常陸国の統一に結び付くこととなります。なお、佐竹氏と上杉氏、武田氏との間には、それぞれ血縁があり、上杉氏については、このページの冒頭に記載したとおりであり、武田氏については、佐竹氏の庶流が武田氏といったつながりになっています。なお、近年の歴史研究においては、武田氏の発祥の地は、常陸国の那賀郡武田郷(なかぐん・たけだごう。現在の茨城県ひたちなか市武田。)であったという考察が定説となっており、歴史小説「佐竹義重」(著・近衛龍春 発行・PHP研究所)の描写を根拠とするならば、佐竹氏は、武田氏や上杉氏の動きを巧みに利用していたものと推察することができます。

烏山城跡
烏山城跡_案内

写真-72 烏山城跡
(現・栃木県那須烏山市城山地内)

手這坂の戦いの地

写真-73 手這坂の戦いの地
(現・茨城県石岡市小幡地内)

(その9)​小田原征伐・忍城の戦い

 佐竹氏の第18代当主であった義重と、第19代当主であった義宣(よしのぶ)は、自らの勢力拡大に向けて積極的に動いていました。2人の主な戦歴をまとめると、次のとおりとなります。

【1】霧ヶ沢の戦い(きりがさわのたたかい)
永禄10年(1567年)に起こった戦い。下野国の烏山城(からすやまじょう。現在の栃木県那須烏山市にあった城。)付近において、下野国の那須(なす)氏と対戦し、敗北。

【2】手這坂の戦い(てばいざかのたたかい)
永禄12年(1569年)に起こった戦い。常陸国にある筑波山(つくばさん)の東側にある手這坂(てばいざか。現在の茨城県石岡市小幡周辺。)において、常陸国の小田(おだ)氏と対戦し、勝利。

【3】沼尻の合戦(ぬまじりのかっせん)
天正12年(1584年)に起こった戦い。下野国の沼尻(ぬまじり。現在の栃木県栃木市藤岡。)付近において、相模国の後北条氏と対戦し、引き分け。

【4】人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)
天正13年(1586年)に始まった戦い。自らの所領となっていた南郷(なんごう)を含む陸奥国において、陸奥国の伊達政宗(だてまさむね)と対戦し、勝利を目前としながらも突然撤兵。義重は隠居し、義宣に引き継がれる。開戦から3年後、政宗が、佐竹氏方の会津蘆名(あいづ・あしな)氏の居城であった黒川城(くろかわじょう。現在の福島県会津若松市追手町にあった城。)を奪取。(のちに、黒川城は、鶴ヶ城(つるがじょう)又は会津若松城(あいづわかまつじょう)と呼ばれることになります。)

【5】忍城の戦い(おしじょうのたたかい)
天正18年(1590年)に、武蔵国(むさしのくに)の忍城(おしじょう。現在の埼玉県行田市本丸にあった城。)で起こった戦いに参戦。(詳細は後述)

 一方、畿内(きない)では、元亀4年(1573年)に、室町幕府の第15代将軍であった足利義昭(あしかがよしあき)が、織田信長(おだのぶなが)によって追放され、事実上、室町幕府が崩壊し、このまま、信長による新しい武家政権が続くと思いきや、天正10年(1582年)に、明智光秀(あけちみつひで)によって引き起こされた「本能寺の変(ほんのうじのへん)」によって、信長が自害に追い込まれ、信長を自害に追い込んだ光秀も「山崎の戦い(やまざきのたたかい)」から落ち延びる途中に自害に追い込まれ、信長の家臣であった豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって、ようやく全国統一(天下統一)が成し遂げられるという展開になっていきます。自らの政権を盤石なものにしたかった秀吉は、天正18年(1590年)に、小田原城を拠点とする後北条氏を討伐することとします。いわゆる「小田原征伐(おだわらせいばつ)」であり、秀吉は、多くの諸大名を味方につけ、後北条氏を追い詰めていきました。

 ちょうどその頃、再び、伊達政宗と対峙していた佐竹義宣の手元に、義宣の従兄弟でもあった下野国の宇都宮国綱(うつのみやくにつな)から、小田原征伐への参陣要請が届けられました。政宗と対峙していた義宣でしたが、その要請に従い、豊臣秀吉の下に馳せ参じることとしました。秀吉から、秀吉の家臣の石田三成(いしだみつなり)の指揮下に入るよう命じられると、義宣は、三成を総大将として、忍城(おしじょう。現在の埼玉県行田市本丸にあった城。)での戦いに参じることとなりました。のちに「忍城の戦い(おしじょうのたたかい)」と呼ばれることとなるこの戦いは、日本三大水攻めのひとつとしても数えられ、度重なる水攻めをもっても、なかなか、落城させることができませんでした。しかし、先行して小田原城が開城されると、それを追うように、忍城も開城されることとなり、佐竹氏は、豊臣政権下の大名として、その地位を確実なものとしました。

会津若松城(黒川城)

写真-74 黒川城(鶴ヶ城、会津若松城)
(現・福島県会津若松市追手町地内)
※上記の時点において天守閣は存在しません。

忍城

写真-75 忍城

(現・埼玉県行田市本丸地内)

※上記の時点において御三階櫓は存在しません。

(その10)​常陸国の統一

 

 小田原征伐後、忍城の戦いに参陣した功績により、豊臣秀吉から常陸国の安堵(あんど。土地の所有権が認められること。当初は、約21万石。)を受けた佐竹義宣は、小田原征伐に参陣しなかった水戸の常陸江戸氏から馬場城(以下、「水戸城」に統一します。)を奪い、同じく小田原征伐に参陣しなかった府中(現在の茨城県石岡市府中。)の常陸大掾(ひたちだいじょう)氏や鹿行(ろっこう。現在の茨城県鹿嶋市、神栖市、鉾田市、行方市、潮来市周辺)の常陸大掾氏の庶流であった鹿島(かしま)氏などを次々に滅ぼし、ついに、常陸国の統一を達成しました。常陸国を統一した義宣は、自らの居城を、常陸江戸氏から奪った水戸城に移し、水戸城と城下町の整備にあたりました。文禄4年(1595年)、善宣は、秀吉から54万5800石の朱印状が与えられ、常陸国における影響力を確固たるものとしました。

 しかし、佐竹氏による常陸国の支配は、あっという間に終焉を迎えてしまいます。慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が没して、秀吉の子の秀頼(ひでより)が家督を継ぐと、豊臣政権の五大老の一人で、事実上、豊臣政権の最高権力者になっていた徳川家康(とくがわいえやす)と、豊臣政権の五奉行の一人であった石田三成が対立することとなり、慶長5年9月15日(1600年10月21日)、家康らが東軍、三成らが西軍に分かれて、「関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)」が開戦することとなります。そして、家康率いる東軍が、この戦いに勝利すると、豊臣政権は消滅することとなり、家康によって新たな武家政権が樹立されることとなります。関ヶ原の戦いに参戦しなかった義宣は、後日、家康に謝罪したとも言われていますが、慶長7年(1602年)、家康の使者によって、所領の没収と国替えが言い渡されると、佐竹氏は、出羽国(でわのくに)の久保田(くぼた。現在の秋田県秋田市。)の地に移ることとなってしまいました。

小田原城

写真-76 小田原城

(現・神奈川県小田原市城内地内)

※上記の時点において天守閣は存在しません。

島崎城跡
島崎城跡_案内

写真-78 島崎城(しまざきじょう)跡

(常陸大掾氏の庶流・島崎氏の居城)

(現・茨城県潮来市島須地内)

鹿島城址

写真-77 鹿島城址(鹿島氏の居城)

(現・茨城県鹿嶋市城山地内)

玉造城跡

写真-79 玉造城(たまづくりじょう)跡

(常陸大掾氏の庶流・玉造氏の居城)

(現・茨城県行方市玉造地内)

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