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​常陸国の歴史(少し詳しい解説10)

 このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。

最終更新 令和6年(2024​年)11月 24日

 

(5)水戸徳川家による統治 2/2

 

(その6)水戸徳川家と高松松平家

 水戸徳川家(みととくがわけ)と高松松平家(たかまつ・まつだいらけ。讃岐国(さぬきのくに)の高松藩(たかまつはん。現在の香川県高松市など。)を治めていた徳川家の一門。)との間には、深いつながりがあり、第2代水戸藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)、そして、初代高松藩主の松平頼重(まつだいらよりしげ)の時代まで遡ることができます。両者は、初代水戸藩主であった徳川頼房(とくがわよりふさ)の実子であり、具体的には、光圀が頼房の三男、頼重が頼房の長男に当たります。

 両家のつながりにおいて、最も特徴的なのは、第3代水戸藩主の徳川綱條(とくがわつなえだ)と、第2代高松藩主の松平頼常(まつだいらよりつね)の間柄であり、綱條が初代高松藩主・松平頼重の二男、頼常が第2代水戸藩主・徳川光圀の長男といった関係になっています。つまりは、水戸徳川家と高松松平家の後継ぎが入れ替わったということであり、このことは、三男にも関わらず水戸徳川家を継ぐことになってしまった光圀の配慮であったと考察されています。これ以降、水戸徳川家は、松平頼重の流れをくむ者によって、継がれていくこととなります。

 なお、高松松平家のように、有力な大名(この場合、水戸徳川家。)等の庶流にありながら、嫡流に嫡子(嗣子)が欠いた時、嫡流を継ぐことができるような立場にあった一門を「御連枝(ごれんし。連枝とも言います。)」と言い、高松松平家のほか、陸奥国(むつのくに)の守山藩(もりやまはん。現在の福島県郡山市。)を所領としていた守山松平家(もりやま・まつだいらけ)、常陸国府中藩(ふちゅうはん。現在の茨城県石岡市。)を所領としていた府中松平家(ふちゅう・まつだいらけ)、常陸国の宍戸藩(ししどはん。現在の茨城県笠間市。)を所領としていた宍戸松平家(ししど・まつだいらけ)がありました。

高松藩上屋敷跡

写真-102 高松藩上屋敷跡
(現・東京都千代田区飯田橋地内)

府中藩陣屋跡

写真-104 府中藩陣屋跡

(現・茨城県石岡市総社地内)

守山藩上屋敷跡

写真-103 守山藩江戸屋敷跡

(現・東京都文京区大塚地内)

宍戸藩陣屋跡

写真-105 宍戸藩陣屋跡

(現・茨城県笠間市平町地内)

(その7)第4代水戸藩主・徳川宗堯

 享保3年(1718年)、第3代水戸藩主の綱條が逝去すると、綱條の弟の孫に当たる徳川宗堯(とくがわむねたか)が、12歳(数え年で14歳)という年齢で第4代水戸藩主に就くこととなりました。宗堯は、のちに「享保の新政(きょうほうのしんせい)」と呼ばれる藩政改革に取り組みましたが、第4代水戸藩主の就任から約12年後に当たる享保15年(1730年)に、24歳という年齢で急死してしまい、水戸藩主の座は、僅か1歳の徳川宗翰(とくがわむねもと)に継がれることとなりました。

 この頃、江戸幕府においては、第7代将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)の逝去をもって徳川将軍家が断絶し、その養子として、紀伊徳川家(きいとくがわけ。徳川家康(とくがわいえやす)の十男、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)の流れをくむ徳川家の一門。紀伊藩(きいはん。現在の和歌山県和歌山市など。)を治めた徳川御三家の一つ。)から徳川吉宗(とくがわよしむね)が迎えられました。享保元年(1716年)、第8代将軍となった吉宗は、のちに江戸時代の三大改革の一つとして位置づけられた「享保の改革(きょうほうのかいかく)」に取り組みました。
 

(その8)第5代水戸藩主・徳川宗翰

 享保15年(1730年)、第5代水戸藩主となった宗翰は、急死した宗堯の実子であり、僅か1歳(数え年で3歳)という年齢で水戸藩主になっています。宗堯による財政改革(享保の新政)に引き続いて、水戸藩の財政改革に取り組んでいた宗翰(幼少期は、守山松平家などによって取り組まれました。)でしたが、寛延2年(1749年)、江戸幕府から水戸藩の財政改革を命じられてしまいます。宗翰は、このことを機に、のちに「寛延・宝暦の改革(かんえん・ほうれきのかいかく)」と呼ばれる藩政改革に取り組むこととなりましたが、この改革によって藩の財政難が解消されることはなく、明和3年(1766年)に、36歳という年齢で逝去すると、その改革は、第6代水戸藩主となった徳川治保(とくがわはるもり)に引き継がれて行くこととなりました。

 水戸藩が財政難に苦しんでいたこの頃、江戸幕府においては、享保の改革を推し進めていた第8代将軍・徳川吉宗によって、清水徳川家(しみず・とくがわけ)、田安徳川家(たやす・とくがわけ)、一橋徳川家(ひとつばし・とくがわけ)が置かれることとなりました。のちに「御三卿(ごさんきょう)」と呼ばれることとなるこれら徳川家一門は、将軍家の継嗣を目的として置かれた一門であり、中でも、一橋徳川家にあっては、のちに、第11代将軍と第15代将軍を輩出することとなります。又、江戸時代末期においては、水戸徳川家との強いつながりを持つようになります。

一橋徳川家屋敷跡

写真-106 一橋徳川家屋敷跡
(現・東京都千代田区大手町地内)

一橋徳川家屋敷跡

写真-107 一橋徳川家屋敷跡

(現・東京都千代田区大手町地内)

(その9)第6代水戸藩主・徳川治保

 明和3年(1766年)、第6代水戸藩主となった徳川治保は、逝去した宗翰の長男であり、14歳(数え年で16歳)という年齢で水戸藩主になっています。様々な藩政改革を続けていた治保でしたが、安永7年(1778年)に、江戸幕府から2度目となる財政改革を命じられたり、天明2年(1782年)からは、のちに「天明の大飢饉(てんめいのだいききん。江戸時代における四大飢饉の一つ。)と呼ばれることとなる大飢饉が発生したりと、大規模な藩政改革を強いられることとなりました。治保は、歴代で2番目に長い在任期間(約35年間)をもつ水戸藩主であり、文化2年(1802年)に逝去しました。

 江戸幕府においては、延享2年(1745年)に隠居して大御所となった吉宗の後を、吉宗の長男・徳川家重(とくがわいえしげ)が継いで第9代将軍となり、宝暦11年(1761年)に家重が逝去した後には、家重の長男・徳川家治(とくがわいえはる)が継いで第10代将軍となりました。のちに「田沼時代(たぬまじだい)」と呼ばれることとなるこの時代は、江戸幕府の老中(ろうじゅう。江戸幕府の政務を担う最高職。複数名が任用されていた。)であった田沼意次(たぬまおきつぐ)によって積極的な政策が推し進められていた時代であり、賄賂(わいろ)が横行する腐敗した時代でもありました。天明6年(1786年)に、第10代将軍・家治が逝去すると、田沼意次は失脚することとなり、新たに第11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)が、老中の松平定信(まつだいらさだのぶ)に命じる形で「寛政の改革(かんせいのかいかく。江戸時代における三大改革の一つ。)」が行われました。

 第2代水戸藩主・徳川光圀によって始められた大日本史の編纂は、光圀の逝去後、厳密に言えば、大日本史の編纂に携わっていた儒学者・安積澹泊(あさかたんぱく)の逝去後、 長らく停滞していました。やがて、第6代水戸藩主・治保の時代になると、水戸藩士の立原翠軒(たちはらすいけん)や、翠軒の弟子であり、儒学者の藤田幽谷(ふじたゆうこく)らの尽力によって、およそ50年ぶりに、大日本史の編纂が再興されることとなります。しかし、程なくして、二人は、大日本史の題名や藩政改革への意見などをめぐって対立してしまいます。この対立によって、翠軒は幽谷を破門してしまいますが、やがて、幽谷は第一線に復帰すると、幽谷と幽谷の門下生は、後述する「水戸学(みとがく)」を発展させていくこととなります。

(その10)第7代水戸藩主・徳川治紀

 

 文化3年(1805年)、第7代水戸藩主となった徳川治紀(とくがわはるとし)は、逝去した宗翰の嫡男であり、31歳(数え年で33歳)という年齢で水戸藩主になっています。文化13年(1815年)に逝去するまでの約10年間、財政難や異国船の出没といった難局に対処した治紀は、藤田幽谷らの意見に耳を傾け、水戸藩内海岸全域への軍の配置を定めました。(後述のとおり、異国船の目撃情報もあったようです。)

 大日本史の編纂に始まった藤田幽谷の活動は、やがて、水戸学の発展につながっていきました。水戸学とは、儒学(じゅがく)を基礎とした水戸発祥の学問であって、特に、藤田幽谷と幽谷の門弟が発展させた水戸学のことを「後期水戸学(こうきみとがく)」と言います。(徳川光圀が大日本史の編纂に関わっていた時代の水戸学のことを「前期水戸学(ぜんきみとがく)」言います。)やがて、藤田幽谷らを中心とした新興勢力は、「改革派(かいかくは)」と呼ばれるようになり、「門閥派(もんばつは)」と呼ばれる保守勢力と対立していくこととなります。

(その11)第8代水戸藩主・徳川斉脩

 文化13年(1815年)、第8代水戸藩主となった徳川斉脩(とくがわなりのぶ)は、逝去した治紀の長男であり、18歳(数え年で20歳)という年齢で水戸藩主になっています。相変わらず財政難に苦しんでいた水戸藩でしたが、第11代将軍・徳川家斉の七女・峰姫(みねひめ)を斉脩の御簾中(ごれんじゅう。正妻のこと。)として迎えると、江戸幕府から援助を得られるようになり、水戸藩の財政状況は少しだけ改善されました。しかし、その一方で、異国船(英国の船)の船員が大津浜(おおつはま。現在の茨城県北茨城市大津町。)に上陸するといった事件(のちに「大津浜事件」と呼ばれるようになります。)が起こったり、斉脩に嫡子がいなかったことによって継嗣(けいし)問題が起こったりと、新たな問題が顕在化していきました。文政12年(1829年)、江戸で生まれ育った斉脩は、1度も水戸の地を踏むことなく、32歳(数え年で33歳)という年齢で逝去してしまいました。

 斉脩の時代に起こった水戸藩の継嗣問題にあっては、第7代水戸藩主であった治紀の三男・徳川斉昭(とくがわなりあき)を推す勢力と、第11代将軍・家斉の十一男であった徳川斉彊(とくがわなりかつ。のちの第12代紀州藩主。)を推す勢力の存在がありました。斉脩が逝去した直後、次の水戸藩主に斉昭を指名する遺書(斉脩が書いたものであったとされますが、斉昭を推す勢力が書いたものとも言われています。)が見つかったことで、結果的に、第9代水戸藩主の座は、当時、部屋住み(へやずみ)であった斉昭が就くこととなりました。斉昭を推した改革派(藤田幽谷、会沢正志斎(あいざわせいしさい)など)の地位は、確固たるものとなりました。

大津浜事件_案内

写真-108 大津浜事件の地
(現・茨城県北茨城市大津町地内)

大津浜(大津漁港)

写真-109 大津浜
(現・大津漁港/茨城県北茨城市大津町地内)

(その12)第9代水戸藩主・徳川斉昭

 

 文政12年(1829年)、第9代水戸藩主となった斉昭は、積極的に藩政改革に取り組み、藩校の「弘道館(こうどうかん)」や日本庭園の「偕楽園(かいらくえん)」の整備に尽力しました。斉昭は、第2代水戸藩主の光圀と共に、水戸藩における名君であったとされ、その功績は、現代においても、高く評価されています。(その一方で、斉昭は、気性の荒い人物であったとも評価されています。)しかし、斉昭は、自身が逝去するまで水戸藩主の座にあったわけではなく、弘化元年(1844年)に、江戸幕府から受けた「七ヶ条の詰問(ななかじょうのきつもん)」によって、水戸藩主の座から失脚するに至っています。

 ちなみに、斉昭が江戸幕府から受けた七ヶ条の詰問には、(1)砲連発ノ事、(2)御勝手向御不足ノ御申立ニハ候へ共左迄ニハ有之間敷事、(3)松前今以御望ミ有之哉ノ事、(4)諸人御召抱ノ事、(5)御宮御祭儀御改ノ事、(6)寺院破却ノ事、(7)学校土手高サノ事 ─ を問う内容が記載されていて、特に(1)の「砲連発ノ事」については、失脚の直前まで毎年実施していた「追鳥狩(おいとりがり)」と呼ばれる軍事訓練について詰問されています。追鳥狩を実施した背景については、先に述べた大津浜事件のほか、西洋諸国の東洋進出などが関わっていて、このことは「尊王攘夷(そんのうじょうい。王(天皇)を尊び、夷(外国)を追い攘う(払う)という意味。)」と呼ばれる思想に影響を与えていくこととなります。

(その13)第10代水戸藩主・徳川慶篤

 失脚した斉昭の後の水戸藩主には、斉昭の長男であった徳川慶篤(とくがわよしあつ)が継ぐこととなりました。慶篤の在任中には、安政5年(1858年)の「安政の大獄(あんせいのたいごく)」、安政7年(1860年)の「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」、元治元年(1864年)の「天狗党の乱(てんぐとうのらん)」、慶応3年(1868年)の「大政奉還(たいせいほうかん)」といった大きな出来事が次々と起こっていて、慶応4年/明治元年(1868年)に起こった「弘道館戦争(こうどうかんせんそう)」の直前に逝去しています。

 斉昭から慶篤までの時代、即ち、江戸時代末期の約40年間における江戸幕府は、第11代将軍・徳川家斉から、第12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)、第13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)、第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)を経て、第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に至り、江戸幕府、江戸時代が終焉することとなります。この時代に、水戸藩で発展した水戸学(後期水戸学)は、日本全国(諸藩)に広がり、長州藩(ちょうしゅうはん。現在の山口県。)の思想家・吉田松陰(よしだしょういん)らが、複数回にわたって、会沢正志斎の下に面会に来るなど、幕末の思想に大きな影響を与えていきました。

 水戸学の発展に寄与した学者としては、先に述べた立原翠軒、藤田幽谷、会沢正志斎のほか、青山延于(あおやまのぶゆき)や藤田東湖(ふじたとうこ)らを挙げることができます。特に、藤田幽谷の実子かつ後継者であった藤田東湖については、「弘道館記述義(こうどうかんきじゅつぎ)」などを執筆したことにより、水戸学を代表する学者として諸国に広く知れ渡るようになったほか、徳川斉昭の側用人として、藩政(水戸藩)や幕政(江戸幕府)にも関わりました。このように、水戸学に留まらず、政治にも関わった藤田東湖でしたが、安政2年(1855年)に起こった「安政の大地震(あんせいのおおじしん)」において、圧死してしまいました。

弘道館

写真-110 弘道館
(現・茨城県水戸市三の丸地内)

偕楽園東門

写真-111 偕楽園
(現・茨城県水戸市常磐町地内)

(その14)徳川斉昭と江戸幕府

 ここで話は、徳川斉昭が第9代水戸藩主を失脚することとなった弘化元年(1844年)の少し前まで遡ります。江戸幕府においては、第11代将軍・徳川家斉による幕政(注記参照のこと。)が終焉し、第12代将軍・徳川家慶による幕政改革が進められていました。のちに「天保の改革(てんぽうのかいかく。江戸時代における三大改革の一つ。)」と呼ばれることとなるこの改革は、老中首座となった水野忠邦(みずのただくに)らを中心として実行され、斉昭の意見が取り入れられた改革でもありました。

 老中首座の水野忠邦らを中心として実行された天保の改革の前後にあっては、異国船が多く確認されるようになっていました。大津浜事件以降、軍事力の強化に取り組んだ斉昭は、追鳥狩と称する大規模な軍事訓練を毎年実施するようになっていました。一方、異国船に対する江戸幕府の対応については、文政8年(1825年)に発令した「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」に基づき、異国船を打ち払う決まりとしていましたが、天保13年(1845年)に考えを改め、「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を発令して、異国船には水と燃料を給与することとしました。

 嘉永6年(1853年)、相模国(さがみのくに)の浦賀(うらが。現在の神奈川県横須賀市。)沖にマシュー・ペリー(米国(べいこく。アメリカ。)の海軍代将)率いる船団が来航しました。いわゆる「黒船来航(くろふねらいこう)」です。米国からの要求に対して、その回答に1年間の猶予を得ることができた江戸幕府でしたが、黒船が来航した10日後に第12代将軍の家慶が急死してしまいました。この事態において、家慶の後を継いだのは、四男の徳川家定でした。第13将軍となった家定でしたが、幼少の頃から病弱な体であったため、やがて「将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)」に発展していくこととなります。ちなみに、黒船来航から江戸時代の終わりまでの時代のことを「幕末(ばくまつ)」と言い、様々な事件が続発していきます。

 七ヶ条の詰問により、水戸藩主から失脚していた斉昭でしたが、黒船来航を機に、江戸幕府の参与(さんよ)に命じられることとなりました。斉昭は、江戸石川島(いしかわじま。現在の東京都中央区佃。)に造船所を設け、西洋軍艦「旭日丸(あさひまる)」を造船したほか、常陸国那珂湊(なかみなと。現在の茨城県ひたちなか市。)に、大砲の鋳造を目的とした金属熔解炉「那珂湊反射炉(なかみなとはんしゃろ)」を建造し、異国に対する攘夷を主張しました。このことは、尊王攘夷を基礎とする水戸学の影響によるものであり、幕府内の対立を助長することとなりました。

 斉昭には、22男15女の実子(この時点では12男9女の実子)がいて、その7男には、七郎麿(しちろうまろ)の存在がありました。七郎麿とは、のちに第15代将軍となる徳川慶喜のことであり、斉昭の失脚から3年後にあたる弘化4年(1847年)に、一橋徳川家の当主になりました。このことは、のちの将軍継嗣問題において、南紀派(なんきは。紀伊徳川家から将軍を擁立するべきと主張した派閥。)の対立軸となる一橋派(ひとつばしは。一橋徳川家から将軍を擁立するべきと主張した派閥。)を生むこととなり、慶喜の父である斉昭は、一橋派の筆頭格として、江戸幕府と対峙するようになっていきます。

(注記)
 第11代将軍・徳川家斉の晩年にあっては、自らが任命した老中首座の水野忠成(みずのただあきら)が贈収賄を容認したことにより、幕政の腐敗を招いてしまいました。将軍の職を家慶に譲った天保8年(1837年)から家斉が逝去した天保12年(1841年)までの時代のことを「大御所時代(おおごしょじだい)」と言い、将軍の職を二男・家慶に譲ったのにも関わらず、引き続き、幕政に関わり続けていました。なお、家斉の将軍在任期間は50年であり、歴代将軍の中で最長であったほか、在任期間中の文化は「化政文化(かせいぶんか)」と呼ばれ、とても華やいだ時代でもありました。

石川島造船所跡地

写真-112 石川島造船所跡地

(現・東京都中央区佃地内)

那珂湊反射炉

写真-113 那珂湊反射炉

(現・茨城県ひたちなか市地内)

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