常陸国を旅するチャンネル
常陸国の歴史(少し詳しい解説11)
このページでは、少し詳しい解説(INDEX)に記載した書籍等を基本情報として、現地で得た情報を加えて作成しています。しかしながら、歴史に対する見方、考え方は、数多くあり、日々変化します。このことを理解し、歴史学習の参考としてください。
最終更新 令和6年(2024年)11月 24日
【幕間】常陸国の諸藩
(江戸時代~明治時代初期)
江戸時代における幕府や藩の直接的な収入源は、米、農作物、鉱物(金、銀、銅等)などであり、それらを売ることで貨幣を得ていました。先に述べたとおり、常陸国・水戸藩(ひたちのくに・みとはん)の石高は35万石。水戸藩は、長きにわたって財政難に苦しんだと言われていますが、そもそも、常陸国を統一した佐竹(さたけ)氏の石高は54万5800石でした。歴史に「もしも」はないと言われますが、もしも、佐竹氏の石高を全て引き継いでいたら、1.5倍の収入源によって、異なる藩政が行われていたかもしれません。
江戸時代の常陸国には、水戸藩の他に、麻生藩、牛久藩、江戸崎藩、小張藩、柿岡藩、笠間藩、片野藩、宍戸藩、志筑藩、下館藩、下妻藩、玉取藩、土浦藩、額田藩、府中藩、古渡藩、北条藩、保内藩、真壁藩、松岡藩、松川藩、谷田部藩、龍ケ崎藩といった小規模な藩が置かれていきました。(志筑藩、松岡藩、松川藩、龍ケ崎藩は、大政奉還後に置かれました。)さらに、江戸幕府の直轄地(のちに天領(てんりょう)と呼ばれるようになりました。)になっていたり、他国の藩の領地になっていたりと、かつて、佐竹氏が有していた54万5800石という石高は、常陸国内の諸藩によって、分散される結果となりました。(今回の解説には、写真や画像がありません。ご容赦ください。)
(補足)
少し詳しい解説8で述べたように、「藩(はん)」と呼ばれる行政区分は、明治時代から用いられた表現です。正しくは、常陸国内に、多くの大名(だいみょう。石高1万石以上を有する武家のこと。)が置かれていたということになります。
【今回、解説する諸藩の一覧】
(その1)麻生藩
(その2)牛久藩
(その3)江戸崎藩
(その4)小張藩
(その5)柿岡藩
(その6)笠間藩
(その7)片野藩
(その8)宍戸藩
(その9)志筑藩
(その10)下館藩
(その11)下妻藩
(その12)玉取藩
(その13)土浦藩
(その14)額田藩
(その15)府中藩
(その16)古渡藩
(その17)北条藩
(その18)保内藩
(その19)真壁藩
(その20)松岡藩
(その21)松川藩
(その22)水戸藩
(その23)谷田部藩
(その24)龍ケ崎藩
(その1)麻生藩(あそうはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県行方市麻生地内
■ 元は、行方(なめがた)氏一族が領していた地域であり、佐竹(さたけ)氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長9年(1604年)に、常陸国・麻生(あそう)の地を領することとなった新庄直頼(しんじょうなおより)によって立藩されました。14代にわたる新庄家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、麻生県となりました。(出典:麻生町史)
(その2)牛久藩(うしくはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県牛久市城中町地内
■ 元は、小田(おだ)氏の庶流であった岡見(おかみ)氏、土岐原(ときはら)氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、寛永6年(1629年)に、常陸国・牛久(うしく)の地を領することとなった山口重政(やまぐちしげまさ)によって立藩されました。(※)12代にわたる山口家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、牛久県となりました。(出典:牛久市史)
※天正18年(1590年)にあった小田原征伐(おだわらせいばつ)の直後から牛久藩の立藩に至るまでの間、上野国(こうづけのくに。現在の群馬県。)を起源とする旗本の由良(ゆら)氏によって領されていました。
(その3)江戸崎藩(えどさきはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県稲敷市江戸崎甲地内
■ 元は、土岐原氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長8年(1603年)に、常陸国・江戸崎(えどさき)の地を領することとなった青山忠成(あおやまただなり)によって立藩されました。慶長15年(1610年)に、青山家が移転したのちには、少しの間を置いて、元和5年(1619年)に、常陸国・古渡藩(ふっとはん。後述の「古渡藩」を参照のこと。)の藩主・丹羽長重(にわながしげ)の領地となりました。(長重は、古渡藩を廃して、江戸崎藩に移転しました。)元和8年(1622年)に、長重が、陸奥国・棚倉藩(むつのくに・たなぐらはん。現在の福島県棚倉町。)に移転したのちには、江戸崎藩は、廃藩され、江戸幕府領や旗本領になりました。(出典:江戸崎町史)
(その4)小張藩(おばりはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県つくばみらい市小張地内
■ 元は、小田(おだ)氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長8年(1603年)に、常陸国・小張(おばり)の地を領することとなった松下重綱(まつしたしげつな)によって立藩されました。元和2年(1616年)に、松平家が移転したのちには、小張藩は、廃藩となり、江戸幕府領となりましたが、延宝7年(1679年)に、松平乗政(まつだいらのりまさ。大給松平(おぎゅうまつだいら)家の初代当主。)が入封してくることとなると、小張藩が再興されることとなりました。天和元年(1681年)に、松平家が移転したのちには、小張藩は、廃藩されることとなり、旗本領となりました。(出典:伊奈町史)
(その5)柿岡藩(かきおかはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県石岡市柿岡地内
■ 元は、小田(おだ)氏などの影響が強かった地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、稲葉正勝(いなばまさかつ)が領することとなりました。(※)柿岡の地を包含する旧・八郷町(やさとまち。現在の茨城県石岡市。)の町史においては、柿岡藩が存在していたことを示す明確な記述はありませんが、藩史大辞典/第2巻/関東編(雄山閣出版)等においては、柿岡藩の記述があることを確認することができます。なお、八郷町史においては、天和3年(1683年)に、旗本の稲葉家が領していたことが分かる記述を確認することができるほか、幕末においては、江戸幕府領や旗本領であったことが分かる記述を確認することができます。(出典:八郷町史、藩史大辞典)
※八郷町史の変遷表においては、稲葉家が柿岡の地を領する前に、江戸幕府領、笠間藩の領地であったことが分かる記述を確認することができます。
(その6)笠間藩(かさまはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県笠間市笠間地内
■ 元は、笠間(かさま)氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長6年(1601年)に、常陸国・笠間(かさま)の地を領することとなった松平康重(まつだいらやすしげ。松井松平(まついまつだいら)家の初代当主。)によって立藩されました。慶長13年(1608年)に、松平家が移転したのちには、小笠原(おがさわら)家、(幕府領を挟んで)戸田松平(とだまつだいら)家、永井(ながい)家、浅野(あさの)家、井上(いのうえ)家、本庄(ほんじょう)家、井上家の順で次々と藩主が入れ替わりましたが、延享4年(1747年)の牧野貞通(まきのさだみち)の入封をもって、牧野家による継続的な領有が続くこととなりました。13代にわたる牧野家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、笠間県となりました。(出典:笠間市史)
(その7)片野藩(かたのはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県石岡市根小屋地内
■ 元は、小田氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長5年(1600年)に、常陸国・片野(かたの)の地を領することとなった滝川雄利(たきがわかつとし)のによって立藩されました。第2代藩主・滝川正利(たきがわまさとし)が、寛永2年(1625年)に、領地の返上を願い出ると、片野藩は廃藩され、のちに、下総国・関宿藩(しもうさのくに・せきやどはん。現在の千葉県野田市。)の領地の一部や江戸幕府領となりました。(出典:八郷町史)
(その8)宍戸藩(ししどはん)
【御連枝】
■ 藩庁の所在地 茨城県笠間市平町地内
■ 元は、宍戸(ししど)氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長7年(1602年)に、常陸国・宍戸(ししど)の地を領することとなった秋田実季(あきたさねすえ)によって立藩されました。正保2年(1645年)に、秋田家が移転したのちには、少しの間、常陸国・水戸藩(みとはん。後述の「水戸藩」を参照のこと。)の領地となりましたが、水戸藩の第2代藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)が、天和2年(1682年)に、実弟の松平頼雄(まつだいらよりお)に宍戸の地を分け与えたことで、宍戸藩(水戸藩の御連枝(ごれんし)の一つ。)が立藩されることとなりました。10代(※第9代藩主の自刃後に第8代藩主が再任)にわたる宍戸松平家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、宍戸県となりました。(出典:友部町史)
(その9)志筑藩(しづくはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県かすみがうら市中志筑地内
■ 元は、大掾(だいじょう)氏や土豪の志筑(しづく)氏や稲吉(いなよし)氏などの影響が強かった地域であり、慶長7年(1602年)に、常陸国・志筑(しづく)の地を領することとなった本堂茂親(ほんどうしげちか)によって始まったとされています。佐竹氏と入れ替わる様に、出羽国から入封した本堂家でしたが、1万石を下回るほどの減封を受けた上での移封であったため、長らく旗本として志筑の地を領することとなりました。明治維新後に、本堂家への石高の加増が認められると、志筑の地は、旗本領から藩として取り扱われる様になっていきました。10代にわたって続いた本堂家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、志筑県となりました。(出典:千代田村史)
(その10)下館藩(しもだてはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県筑西市甲地内
■ 元から水谷(みずのや)氏が領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長6年(1601年)、水谷勝俊(みずのやかつとし)による結城(ゆうき)家からの独立をもって立藩されました。(※)寛永16年(1639年)に、水谷家が移転したのちには、水戸松平(みとまつだいら)家、(幕府領を経て)増山(ましやま)家、(幕府領を経て)黒田(くろだ)家の順で次々と藩主が入れ替わりました。享保17年(1732年)に石川総茂(いしかわふさしげ)が入封してくると、以後、石川家による継続的な領有が続くこととなります。9代にわたる石川家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、下館県となりました。(出典:下館市史)
※戦国時代以前の水野家は下総国・結城(しもうさのくに・ゆうき。現在の茨城県結城市。)の結城氏の臣下にありました。詳しくは、過去の解説を参照してください。
(その11)下妻藩(しもつまはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県下妻市乙地内
■ 元は、多賀谷(たがや)氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長11年(1606年)に、常陸国・下妻(しもつま)の地を領することとなった松平鶴千代(まつだいらつるちよ。徳川家康(とくがわいえやす)の十一男。のちの徳川頼房(とくがわよりふさ)。のちの水戸藩の初代藩主。)によって立藩されました。慶長14年(1609年)に、松平家が常陸国・水戸藩(後述の「水戸藩」を参照のこと。)に移転したのちには、越前松平(えちぜんまつだいら)家、久松松平(ひさまつまつだいら)家の順で藩主が入れ替わりましたが、正德2年(1712年)の井上正長(いのうえまさなが)の入封をもって、井上家による継続的な領有が続くこととなりました。14代にわたる井上家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、下妻県となりました。(出典:下妻市史)
(その12)玉取藩(たまとりはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県つくば市玉取地内
■ 元は、多賀谷氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、元和8年(1622年)に、常陸国・玉取(たまとり)の地を領することとなった堀利重(ほりとししげ)によって立藩されました。延宝7年(1679年)に、第3代藩主・通周(みちちか)が発狂して家臣を殺害すると、所領の多くを江戸幕府に没収され、堀家は旗本となり、玉取藩は旗本領(旗本・堀家の領地)となりました。(出典:大穂町史)
(その13)土浦藩(つちうらはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県土浦市中央地内
■ 元は、小田氏の家臣、菅谷(すげのや)氏などが領していた地域でしたが、天正19年(1591年)に、下総国・結城などを領していた結城秀康(ゆうきひでやす)の領地となりました。(※)やがて、慶長6年(1601年)に、結城氏が越前国・福井藩(えちぜんのくに・ふくいはん。現在の福井県福井市。)に移転することとなると、松平信一(まつだいらのぶかず。藤井松平(ふじいまつだいら)家の第2代当主。)が入封してくることとなり、この入封をもって、立藩されました。元和3年(1617年)に、松平家が移転したのちには、西尾(にしお)家、朽木(くつき)家、土屋(つちや)家、河内松平(かわちまつだいら)家の順で、次々と藩主が入れ替わりましたが、貞享4年(1687年)の土屋政直(つちやまさなお)の入封をもって、土屋家による継続的な領有が続くこととなりました。10代にわたる土屋家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、土浦県となりました。(出典:土浦市史)
※天正18年(1590年)の小田原征伐において、豊臣秀吉(とよとみひでよし)方が勝利すると、小田氏らの領地は全て没収されることとなり、結城秀康の領地となりました。ちなみに、結城秀康については、徳川家康(とくがわいえやす)の二男であり、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の人質などを経て、結城氏の養子、結城氏の第18代当主となっています。一方、領地を没収された小田氏については、結城氏の家臣となって、結城氏と共に、越前国・福井藩に渡ることとなります。詳しくは「少し詳しい解説7」などを確認してください。
(その14)額田藩(ぬかだはん)
守山藩(もりやまはん)
【御連枝】
■ 藩庁の所在地 茨城県那珂市額田南郷地内
■ 元は、大掾(だいじょう)氏、常陸江戸(ひたちえど)氏、佐竹氏などの影響を受けた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、寛文元年(1661年)に、水戸藩の第2代藩主・徳川光圀から、実弟の松平頼元(まつだいらよりもと)に、常陸国・額田(ぬかだ)の地が与えられたことによって始まったとされています。額田の地を包含する旧・那珂町(なかまち。現在の茨城県那珂市。)の町史においては、額田藩が存在していたことを示す明確な記述はありませんが、藩史大辞典/第2巻/関東編(雄山閣出版)等においては、額田藩の記述があることを確認することができます。元禄13年(1700年)に、陸奥国・守山(むつのくに・もりやま。現在の福島県郡山市。)等の新たな知行地が与えられると、第2代藩主・松平頼貞(まつだいらよりさだ)は、守山藩(もりやまはん。水戸藩の御連枝の一つ。後述の「松川藩」を参照のこと。)を立藩し、額田藩の領地は水戸藩に返上されました。(出典:大洗町史、郡山市史、那珂町史、藩史大辞典)
(その15)府中藩(ふちゅうはん)
【御連枝】
■ 藩庁の所在地 茨城県石岡市総社地内
■ 元は、常陸国の国府があった地域であり、大掾(だいじょう)氏などが領していた地域でした。佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長7年(1602年)に、常陸国・府中(ふちゅう)の地を領することとなった六郷政乗(ろくごうまさのり)によって立藩されました。元和9年(1623年)に、六郷家が移転したのちには、3代にわたる皆川(みながわ)家の領有、廃藩、江戸幕府領を経て、元禄13年(1700年)に、保内藩(ほないはん。後述の「保内藩」を参照のこと。)を領していた松平頼隆(まつだいらよりたか)の入封をもって、新たな府中藩(水戸藩の御連枝の一つ。)が立藩されることとなりました。これ以降、府中松平家による継続的な領有が続くこととなります。10代にわたる府中松平家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、石岡県(※)となりました。(出典:石岡市史)
※明治2年(1869年)にあった版籍奉還(はんせきほうかん)のとき、府中藩から石岡藩(いしおかはん)に改称されました。
(その16)古渡藩(ふっとはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県稲敷市古渡地内(詳細不明)
■ 元は、土岐原(ときはら)氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長8年(1603年)に、常陸国・古渡(ふっと)の地を領することとなった丹羽長重(にわながしげ) によって立藩されました。古渡藩の石高(最終)は1万石。長重は、元和5年(1619年)に、常陸国・江戸崎の地を領することとなると、古渡藩を廃して、江戸崎に移転することとなり、古渡の地は、やがて、旗本領などになりました。(先述の「江戸崎藩」も参照のこと。) (出典:江戸崎町史)
(その17)北条藩(ほうじょうはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県つくば市北条地内
■ 元は、小田氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長15年(1610年)に、常陸国・北条(ほうじょう)の地を領することとなった佐久間勝之(さくまかつゆき)によって立藩されました。(※)元和元年(1615年)に、勝之が移転したのちには、廃藩されて、江戸幕府領となりましたが、寛永2年(1625年)に、旗本・堀田正盛(ほったまさもり)の領地となりました。堀田家は、天和2年(1682年)に、領地の加増を受けて大名となったため、このことをもって、再度の立藩となりました。その後、北条藩は、堀田家における紛争をもって廃藩となり、土浦藩の領地となりました。 (出典:筑波町史)
※筑波町史においては、佐久間家によって立藩されたとの記述はありません。
(その18)保内藩(ほないはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県久慈郡大子町大子地内
■ 元は、陸奥国(むつのくに。保内藩に限定すれば、現在の福島県。)に属していた地域であり、慶長8年(1603年 )に、徳川家(水戸藩)の領地になったことをきっかけとして、常陸国に編入された地域です。寛文2年(1662年)に、水戸藩の第2代藩主・徳川光圀から、実弟の松平頼隆(まつだいらよりたか)に対して、常陸国・保内(ほない)の領地(知行地)が分け与えられました。保内の地を包含する大子町(だいごまち。現在の茨城県大子町。)の町史においては、保内藩が存在したとの明確な記述はありませんが、藩史大辞典/第2巻/関東編(雄山閣出版)等においては、保内藩の記述があることを確認することができます。元禄13年(1700年)に、常陸国・府中藩(前述の「府中藩」を参照のこと。)が立藩され、頼隆が府中藩に移転したのちには、水戸藩に属する数多くの藩士の知行地になりました。 (出典:大子町史・藩史大辞典)
(その19)真壁藩(まかべはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県桜川市真壁町真壁地内
■ 元は、真壁(まかべ)氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長11年(1606年)の浅野長政(あさのながまさ)の移封をもって立藩されました。真第2代藩主・浅野長重(あさのながしげ)が、常陸国・笠間藩に移転することとなると、真壁藩は廃藩され、笠間藩の領地などとなりました。(出典:笠間市史・真壁町史料)
(その20)松岡藩(まつおかはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県高萩市下手綱地内
■ 元は、松岡城(まつおかじょう)を居城としていた大塚(おおつか)氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長7年(1602年)に、戸沢政盛(とざわまさもり)によって領されました。なお、松岡の地を包含する高萩市(たかはぎし。現在の茨城県高萩市。)の市史において、この頃に松岡藩が存在したとの明確な記述はありませんが、藩史大辞典/第2巻/関東編(雄山閣出版)等においては、松岡藩の記述があることを確認することができます。元和8年(1622年)に、政盛が移転したのちには、翌年に、水戸藩の附家老であった中山信正(なかやまのぶまさ)に与えられ、以後、中山家による領有が続くことになります。15代にわたって続いた中山家ですが、藩(大名)として認められたのは、明治維新直後の明治元年(1868年)のことでした。廃藩置県の直後は、松岡県となりました。 (出典:高萩市史・藩史大辞典)
(その21)松川藩(まつかわはん)
守山藩(もりやまはん)
【御連枝】
■ 藩庁の所在地 茨城県東茨城郡大洗町成田町地内
■ 元は、大掾(だいじょう)氏、常陸江戸(ひたちえど)氏、佐竹氏などの影響を受けた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、陸奥国・守山藩(むつのくに・もりやまはん。現在の福島県郡山市。水戸藩の御連枝の一つ。先述の「額田藩」を参照のこと。)の領地となっていました。明治維新を経て、明治3年(1870年)に、守山藩の第8代藩主・松平頼之(まつだいらよりゆき)が、常陸国・松川(まつかわ)にあった陣屋を拠点にし、藩の名称を松川藩に改称したことによって、松川藩が始まりました。廃藩置県の直後は、常陸国に属していた領地が松川県、陸奥国に属していた領地が白河県となりました。(出典:大洗町史、郡山市史、那珂町史、藩史大辞典)
(その22)水戸藩(みとはん)
【徳川御三家】
■ 藩庁の所在地 茨城県水戸市三の丸地内
■ 元は、馬場(ばば)氏(吉田(よしだ)氏、大掾(だいじょう)氏とも言われていました。)、常陸江戸(ひたちえど)氏、佐竹氏などが領していた地域でした。佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長7年(1602年)の武田信吉(たけだのぶよし。徳川家康の五男。)の移封をもって立藩されました。慶長8年(1603年)に、信吉が逝去したのちには、慶長14年(1609年)に、下妻藩(先述の「下妻藩」を参照のこと。)を領していた徳川頼房が、加増を受けた水戸に移転し、再び立藩されることとなりました。これ以降、水戸徳川家による継続的な領有が続くこととなります。11代にわたる水戸徳川家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、水戸県となりました。 (出典:水戸市史)
(その23)谷田部藩(やたべはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県つくば市谷田部地内
■ 元は、小田氏などの影響が強かった地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、元和4年(1618年)に、下野国・茂木藩(しもつけのくに・もてぎはん。現在の栃木県茂木町。)の藩主・細川興元(ほそかわおきもと)が、茂木藩の陣屋を常陸国・谷田部に移転させたことをもって立藩されました。9代にわたる細川家の領有は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続くこととなり、廃藩置県の直後は、谷田部県となりました。(出典:谷田部の歴史/谷田部町の歴史編さん委員会)
(その24)龍ケ崎藩
(りゅうがさきはん)
■ 藩庁の所在地 茨城県龍ケ崎市古城地内
■ 元は、土岐原氏などが領していた地域であり、佐竹氏による常陸国統一、佐竹氏の移封などを経て、慶長11年(1606年)に、陸奥国・仙台藩(むつのくに・せんだいはん)の伊達政宗(だてまさむね)に与えられ、仙台藩の領地(龍ケ崎領)となりました。明治維新後の明治4年(1871年)、上総国・大網藩(かずさのくに・おおあみはん。現在の千葉県大網白里市大網。)の藩主・米津政敏(よねきつまさとし)が、大網藩の藩庁を常陸国・龍ケ崎(りゅうがさき)にあった陣屋に移転させ、藩の名称を龍ケ崎藩に改称したことをもって立藩されました。廃藩置県の直後は、龍ケ崎県となりました。 (出典:龍ケ崎市史)